なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖霊降臨節第12主日礼拝説教 「人が真実に生きるとは?」マルコ12:28-34

※ 8月17日(日)は私の夏期休暇で、この2週間ブログへの投稿はしていません。

  毎日暑い日が続いています。くれぐれも健康には留意しつつ、一日一生を大切にお 

  過ごしください。

 

8月24日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。   (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌     151(主をほめたたえよ)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-151.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編57編1-12節(讃美歌交読文61頁)

⑥ 聖  書  マルコによる福音書12章28-34節(新約87頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   416(神の民は)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-416.htm

⑨ 説  教   「人が真実に生きるとは?」

 

私たち人間は、人が真実に生きるとはどういうことなのかを知っていても、その通りにはなかなか生きられない者です。

 

例えば先程司会者に読んでいただいたマルコによる福音書12章28節以下のところに出て来る「一人の律法学者」も、そのような人間の一人ではないかと思われます。

 

律法学者がイエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と質問して、イエスは、第一は唯一の主である神を愛すること、第二は隣人を自分のように愛することである、と答えました。すると、そのイエスの答えを聞いた律法学者は、32節を見ますと、「先生、おっしゃる通りです。…」と言ったというのです。そして、イエスのおっしゃったことを自分なりに言い換えて繰り返しました。すると、今度は、34節を見ますと、イエスが、その律法学者の適切な答えを聞いて、「あなたは神の国から遠くない」と言われたというのです。

 

この記事を読む限り、神の掟が何であるのかという点で、イエスも律法学者も、ただ一人の神を愛すること、隣人を自分のように愛すること、この二つに尽きるということにおいて、同じなのです。けれども、福音書によればイエスと律法学者は対立関係にあります。命に至る道を一つにしながら、なぜ両者は対立してしまうのでしょうか。


エスと律法学者は、命に至る道を一つにしながら、実際には、安息日問題(3:1以下)やコルバン(7章)についての記事が示していますように、その違いが際立っています。マルコによる福音書7章のコルバンの物語のところでは律法学者はイエスによって、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(7:8)と言われているのであります。

このようなことがなぜ起きるのでしょうか? それは、イエスと共に神の命によって日々生かされていく道に、自分が虚心坦懐に、幼な子のようにひたすらに生きようとするのではなく、私たちが自分のために命を所有しようとするところに、根本的な問題があるように思えます。

 

ただ一人の神を愛することは、ただ一人の神にすべての人が無償に愛されていることを信じて生きることです。そして、すべての人を無償に愛する神の愛は、失われたひとりの人を求める愛です。100匹の羊の譬えがそのことを語っています。99匹を残して、いなくなった一匹の羊を探し求める羊飼いのように、神は失われた一人を求めてやまない方であると、イエスは、ご自身の振舞いによって語られました。たとえ99人の命が助かったとしても、たった一人の命を失ってしまったなら、それは、命を大切にしたことにはなりません。

掟には、関係が背後にあります。関係を結ぶ他者との信頼関係の中で、はじめてそれを守ることが出来るものです。「信頼のないところに、約束を守る誠実さは生じ」ません。律法学者は、その答えによってイエスから神の国に近いとい言われました。しかし、その一歩を踏み出すものがなければ、近いけれども、隔たりがあることに変わりありません。近いことと、神の国の勢力範囲にあることは、天と地の違いです。その踏み出されるべき一歩の隔たりを私たちに越えさせるものは、神への信頼による聖霊の導きなのでしょう。

律法学者はユダヤ人の一人として、自分の民イスラエルが神と契約を結んだ「契約の民」であることをよく知っていました。

 

彼らの先祖がエジプトで奴隷状態にあった時に、そのエジプトから不思議にもモーセによって脱出することができましたが、その時、神の言葉として「十戒」がイスラエルの民に告げられたのです。この「十戒」は、奴隷状態だったエジプトから解放されたイスラエルの民が、「神の契約」の民としてどう生きて行くかという神の掟、「あなたがたはかく生きよ」という神の定めを意味しました。

 

十戒出エジプト記20章に記されていますので、そこを読んでいただきたいと思いますが、この十戒の定めの核心が、前半は「神を愛すること」で、後半が「自分のように隣人を愛すること」なのです。後半にある「殺してはならない」「盗んではならない」は、隣人である他者の命や生活を奪ってはならないということです。

 

十戒は、私たち人間とこの世界を創造し、救済し、完成してくださる神を、何よりも大切にして愛し、隣人を自分のように大切にして愛するときに、私たち人間は正義と平和と喜びに満ちた社会(神の国)を生きることができるという神の約束です。

 

ただひとりの神を愛することと隣人を自分のように愛すること、このことが同時に満たされたときに、私たちの中に命の充満、平和が実現します。ただひとりの神のもとにあって、皆が対等同等な者として、他者である隣人の命と生活を奪わないで、民族や国家による分断を越え、性差や能力差という人間の資質の違いを認め合って、共に分かち合い、支え合ってこの地上に住むすべての人が歩むことができれば、この地上に平和な地球社会が誕生するでしょう。

 

しかし、私たちの現実の姿は、未だ民族や国家の壁を地球規模では越えられていませんし、様々な人間の違いが差別や排除を生み出すことからも解放されていません。ですから、この世界の現実は平和からは遠いものです。

 

日本でもこの前の参議院選挙では、「日本人ファースト」ということが声高に語る政党が躍進し、むしろ国家間の壁を強調する空気が強くなっています。「日本人ファースト」は外国人差別につながる考え方ですから、民族や国家の分断を越えてみんなが一つになるという聖書の終末的希望に反します。

 

けれども、私たちはイエスにおいて、その遠い平和が既に実現している神の国の到来を信じています。そしてその神の国をイエスと共に、今ここで生き得るものとして経験しているのではないでしょうか。

奴隷状態であったエジプトを脱出して、40年の荒野での放浪生活の後、イスラエルの民はパレスチナに定住して、この神の約束を信じてその歴史を生きていきます。けれども旧約聖書が証言していますように、イスラエルの民はこの神の定めを大切にして民族としても国家としてもその歴史を歩むことが出来ませんでした。

 

旧約聖書を読んでみますと、第二イザヤのような預言者の預言の中には、神に選ばれたイスラエルの民が核となって世界の諸民族がイスラエルのもとに集まって、全世界が一つの神の民になるという終末的な希望が記されています。

 

しかし、イスラエルの民は未だそのような存在にはなっていませんし、むしろ現在のイスラエル国家はガザを武力攻撃して、十戒に違反してパレスチナ人の虐殺をくり返しています。もちろんイスラエル市民の中にはこの戦争に反対する人も多くいます。

 

神との契約の民であるイスラエルが核となって、諸民族、諸国家が一つの神の民になるという、第二イザヤ等の預言者が語った終末的な希望は、新約聖書ではイスラエルの民に代わってキリストであるイエスと共に生きる共同体が引き継いでいるように描かれています。キリストであるイエスと共に生きる共同体とは、イエスの復活後に誕生した教会を意味しますが、この教会はその後の歴史の中でキリストであるイエスと共に生きる共同体とは言えない、キリスト教という宗教集団として負の歴史を持ってしまっていますので、キリストであるイエスと共に生きる共同体を「イエスの友」「イエスのチーム」というような言い方で言い表している人もいるのであります。

 

新約聖書では、「イエスの友」「イエスのチーム」が世界中に広がって、人類が一つになるという終末的な希望が、旧約聖書イスラエルの民を核にして全世界の諸民族・諸国家が一つになるという終末的希望に代わっているのではないでしょうか。


神を待ちつつ、祈ることと正義をなすことが、ボンヘッファ-の基本命題であったと言われます。第一(祈ること)と第二(正義をなすこと)が密接不可分な形で神の掟であることは、意味深いことです。

 

信仰によって神の掟を生きるということは、ハイデルベルク信仰問答が正しく位置づけているように、救いへの感謝としての行為なのであります。

 

ハイデルベルク信仰問答は、序が「唯一の慰めは何か」で、その答えは、「わたしたちがイエス・キリストのものである」ということです。そして第一部は「人間のみじめさについて」、第2部が「人間の救いについて」、第3部が「感謝について」という構造になっています。

 

この第3部の「感謝について」の項目に、新しきわざとして、十戒と主の祈りが出て来ます。十戒と主の祈りがイエス・キリストのものとしての私たちの生きる道しるべ、ということです。

 

十戒も主の祈も、ただ一人の神との関係の中で、すべての人は違いがありながら大切な存在であり、みな対等同等な存在であるということがその根底にあります。心を尽くして神を大切にすることは、己のごとく隣人を大切にすることです。己のごとく隣人を大切にすることは、心を尽くして神を大切にすることです。

 

このことは、信仰が私たちの神との関係であり、同時に隣人である他者との関係であることを示しているように、私には思えます。そして以前私は『自立と共生の場としての教会』の中で、このように記しました。「そこで、私としては、神関係=他者関係(人間と人間)として信仰をとらえたいと思います。他者関係において己の神関係が問われており、神関係において己の他者関係が問われているからです。そこにおける真実は、イエスの出来事の中に発見できます。それ故、『イエスの出来事は、この世の価値観、差別から私たちをたえず自由にし、真実の交わりを造り出していく』のです」(同書15頁)

私たちは、日常的に与えられている、他者である隣人との関わりを大切にし、その具体的な関わりの中で、繰り返し神への祈りである「主の祈り」を祈ります。主の祈りは、祈ることによって、私たちが主の祈りを生きることへと私たちを促しているのであります。祈ることは行動することだからです。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

天にまします我らの父よ、

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく

地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。

我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、

我らの罪をゆるしたまえ。

我らのこころみにあわせず、

悪より救い出したまえ。

国と力と栄とは

限りなくなんじのものなればなり。

      アーメン。

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

今年の8月は、戦後80年ということで、かつての戦争を振り返り、戦争の悲惨さを改めて強く思わされました。今もウクライナやガザではロシアとイスラエルによる軍事行動が続いています。そのために死者や傷ついている人が多く出ています。

神さま、速やかに戦争が終結しますように! 軍事力という暴力によらない、対話による問題解決への道へとお導きください。

エスは、最も弱い立場の人を大切にされました。あなたのみ心に従って誰も排除せず、共に生きられました。私たちもイエスに倣ってそのように生きることができますように。

今様々な苦しみの中にある者をその苦しみから解き放ち、おごり高ぶる者を打ち砕いてください。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                   アーメン。

 

⑩  讃 美 歌   342(神の霊よ、今くだり)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-342.htm

  •  献  金
  •  頌  栄  28

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

  •  祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。