なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(54)

     マルコ福音書による説教(54)マルコによる福音書12:38-44、
              
 
・今日私たちに与えられていますマルコによる福音書12章38-44節には、前半に「律法学者」について記されています。前回同様イエスは、律法学者をイエスに従う弟子たちが決して見習ってはならない悪い例としてあげています。後半は、律法学者と反対にイエスの弟子たちがむしろ見習うべき模範として、貧しいやもめの行為が取り上げられています。

・律法学者についてここで(38-40節)語られている彼らの姿は、ある面で極端なものです。「長い衣を着て歩く」、「広場で挨拶されること」、「会堂の上席、宴会の上席に座ること」を望み、「やもめの家を食い倒し」「見えのために長い祈りをする」というのです。こういう律法学者の振舞いを挙げて、彼らに気をつけなさいと、イエスは弟子たちに言われたというのです。

・イエスの時代のユダヤ人のようにユダヤ教が生活習慣にまでなっていて、ここに示されているような律法学者の振舞いに対して、人々は当然の事として何の疑いも持たないということがあったのでしょう。恐らく私たちの場合で言えば、かつて仏教が、やはり民衆の生活習慣にまでなっているところにでは、ここに出てくる律法学者と同じようなお坊さんの振舞いを疑いなく、受け入れてしまうということがあったのではないかと思います。

・そのようなことは、たとえば、キリスト教界(世界)や私たちの教会のなかにもないとは言えません。牧師が教会の中で何か特別な風に受け取られる面が、教会には起こりやすいのではないでしょうか。良い意味で、牧師の業が重んじられることは大切ですが、形だけ牧師職が重んぜられるようなことが起こりやすいのです。それはどうしてかと言いますと、信仰者の中では、建前として縦の関係、つまり神と人間との関係が優先され易いからです。信仰は、個々の人間と神との縦の関係でもありますが、そこにおいて、その関係に建前として専心しているとされる宗教家が何となく重んぜられるということが起こるわけです。宗教家の方も、そういう神との関係を建前として重んじる人間関係の中で、自分を何か優れている者としてアッピ-ルしやすいからです。その典型的な存在として、「律法学者」がいたと言えます。ユダヤ教が宗教として唯一であったイエスの時代のユダヤ人社会の中で、このような律法学者の振舞いが起こり得たのです。

・この律法学者の問題は、特殊な事柄というよりも、宗教が持ちやすい普遍的な問題を示していると思われます。旧約聖書を読んでいて、特にエジプト脱出からカナン定着までの時期に、聖戦の思想が一方的に現われてくるところがあります。他民族の征服がヤハエ信仰によって正当化されているところです。そんなところを読んでいて、誰もが感じるのではないかと思いますが、神信仰というものが、現実の歴史において現われる他民族征服という行為を正当化する力として働いているという点があります。よく素朴な質問を受けることがあります。聖書では神が全ての人類を創造されたと言われているのに、なぜイスラエルだけを大事にされるのか。イスラエルに征服される民族も同じ人間ではないかと。その通りだと思います。

・人間と人間との関係を、人間と神との関係にすりかえて考えるところに、一番大きな問題があると思われます。古代イスラエルの聖戦思想においては、民族の戦争行為を肯定し、戦勝イデオロギ-として神信仰が、人間の側において利用された例です。律法学者の場合、神の律法に関する知識や敬虔が、自分自身の誇りとして他者関係において持ち出されてくるという例であります。この二つの面は、人間と人間の関係の中に神関係を強引に持ち出すことから起こる例ですが、ちょうど反対の場合もあります。

・現実に起こる事柄を現実的に対応しないで、神関係の中に逃げ込んだり、解消したりする場合です。例えば、ごく卑近な例でありますが、夫婦喧嘩になった場合、具体的な事柄が原因で、それが起こるわけです。子どもの教育方針の違い(考え方の違い)だとか、約束を破ったということ(今晩早く帰って一緒に食事をするとおいう約束をしていたのに、何も連絡しないで遊んで来てしまったという)等が原因で。ですから、和解するためには、徹底的に話し合って、違いをつめるとか、あるいは、納得できなくても、どちらかの意見にかけてみて、実際にその考え方が正しいかどうかを現実によって判断するとかしなければなりません。そういう場合に、「祈りましょう」と神関係に逃避するということが起こり得ます。

・「律法学者」のことを随分広げて考えてみましたが、このような「すり替え」が起こる原因はどこにあるのでしょうか。それは、十戒の誤解・曲解にあるのではないかと思われます。第一の石に刻まれた神の戒めと、第二の石に刻まれた隣人への戒めを分離するところから来ているのではないでしょうか。神を崇めるということは、私たちの現実生活の中で~それは隣人との諸関係~破れている関係の回復において成就するのであって、両者を切り離したとき、神信仰は人間のイデオロギ-に転落するのです。

・イエスにおいて、神信仰は人間の回復、解放への行為と結びついています。

・一人の貧しいやもめが、レプタ(レプトン銅貨)二つ(一クアドランス、1/64デナリオン)を捧げた行為が注目されています。彼女は全てを捧げました。これこそ、このやもめの捧げ物にイエスが喜びを感じた事柄に他なりません。彼女の心は本当に自分自身のことを考えていなかったのです。彼女は全く信仰で行動しました。律法学者は自分のことを考えていました。一人のやもめが示していることは、ささげることによって真実の人間となるということです。与えるものがないと思っている乏しい者にも、与える物はあるというのです。パウロは、自分の病気を弱さと感じて、強くなれるように願いましたが、「恵みはあなたに対して十分である」という神のこたえを聞き取ったと言われます。何かが増し加わらなければ、自分には何も出来ないという思いが、私たちにはどこかにあるのではないでしょうか。しかし、今のままで、イエスは与える人になることができるというのです。すべてを捧げることが、人間の尊厳の回復でもあると。レプトン銅貨二枚を捧げた女の行為にイエスが見たものは、そのような女の真実ではなかったでしょうか。

・神殿の賽銭箱に賽銭を入れている人々の姿を、その近くで見ながら、イエスの視線は、この女の精一杯の捧げを見損ないませんでした。見かけだけからすれば、彼女の捧げたものはわずかです。しかし、彼女にとっては、それがすべてでした。神にすべてを捧げるこの女には、他の人がどうかということは問題になりません。ただひたすらに、神を求めて生きているのだと思います。福音書にでてくる虐げられている人々も同じでしょう。生存のぎりぎりのところで、自分の存在を確かめたいのでしょう。お前も私の子だと、神から言われたいのでしょう。そのことをたしかに確信できれば、人は生きてゆくことができるからです。

・人の前に、敬虔さをふりかざして、自分がいかに信心深い者であるかを誇る律法学者と、この女は、根本的に違いました。そして、イエスは、この女が誰よりも多くの物を捧げたのだと言われました。

・この説話を、神殿の庭で行ったイエスの問答と教えの最後に置いたマルコは、この説話の中に出てくる貧しいやもめの捧げの行為に、受難のイエスを重ねていたのではないかと思えてなりません。自分が何を得るかに勝って、自分がその存在と生活をもって、神への捧げとしてどこまでも神に応えてゆくことをこそ、イエスは求められたのではないでしょうか。そして、そのことをご自身の身によって示してくれたのだと思います。

・私たちもまた、レプトン二枚を賽銭箱に入れた女に見習いたいと思います。アベ・ピエールは『遺言』という本の中でこのように語っています。「『人間はなぜこの世に生まれたのか?』という質問に対して、わたしはただ『愛することを学ぶため』と答える。考えられないほど巨大な宇宙の存在は、どこかに、何か自由を持った存在がなければ意味がない。小さな惑星の蚊のように小さな人間は宇宙よりも大きい。なぜなら、パスカルが言うように、人間は自分が死ぬことを知っているから。しかも愛しながら死ねるのを知っているからだ。愛が可能になるのは、山があり、海があり、氷河があり、星があるだけでは足りない。自由な存在がなければならないのだ。そしてその自由な存在の未来は『汝、愛に巡りあはん』だ。われわれは〈愛〉に巡り合うように定まっている。我々の心の空隙にその渇望がいつも感じられているように。・・・・・どうしてこんなにも多くの不幸が、不完全なことがあるのか?いくらも問いただしたいだろう。しかし、もし〈永遠〉は〈愛〉に愛を以て応えるために、我々は自由なのだということに確信をもつなら、それ以外のことは『それでもやはり』なのだ。・・・・黒雲よ、たとえお前が恐ろしい嵐になるとしても、太陽を否定はできないのだ」。

レプトン2枚を賽銭箱に入れた女の人は、ささげにおいて〈永遠〉なる方との出会いを与えられ、『それでもやはり』を与えられて生きていったのではないでしょうか。