なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信、№678

船越通信、№678  2025年8月24日(日)  

 

8月9日(土)13:30-15:30紅葉坂教会で神奈川教区の今年度の平和集会(「障害者とともにー戦争は弱い者いじめー」講演:深澤行廣さん〔視覚障がい者、横浜上原教会員〕)がありました。私も出席しました。

 

深澤行廣さんは1948年生まれですから、戦後生まれで戦争体験はしていません。1952年に4歳から横浜訓盲学院に入っています。その訓盲学院で戦争体験をされた方から聞いた戦争中の訓盲学院での暮らしや、横浜大空襲や戦後混乱期の話をしてくれました。

 

視覚障がい者が戦時下や戦後の混乱期を生き抜く困難さは想像するだけでも大変なことのように思われます。

 

平和集会では毎回最後に集会宣言文を参加者一同によって採択されます。その集会宣言文の原案はその年の平和集会の講演のテーマに関係する教区社会委員会に属する小委員会が担当することになっています。今年の担当は社会福祉小委員会でしたので、宣言文の原案も社会福祉小委員会が作りました。その採択された今年の集会宣言文は下記の通りです。

 

【2025年 日本キリスト教団神奈川教区 平和集会集会宣言文】

 

私たちは今、視覚障がい当事者である深澤行廣さんから大事なお話を聞きました。戦時中の横浜訓盲院のこと、横浜大空襲の時の障がい者の様子、戦後の混乱期のことを知らされました。

 

ひとたび戦争が起こると、弱く、小さくされた人から被害にあうことになります。差別は日常に転がっているものでありますが、戦時にはより差別が拡大することを忘れてはなりません。ナチス・ドイツユダヤ人迫害を行いましたが、それだけでなく身体の不自由な人、知的障がいのある人、精神障がい者も収容し、殺害したのでした。戦争は何よりも愚かなことです。

 

私たちは平和を願います。「平和をつくり出す者は幸いである」とイエスは言われました。私たちは平和をつくりだす者になることを願います。私たちは人権を大切にし、障がいのある人もない人も、平和のうちに生きることができるようにする社会をつくり出すことをめざします。

 

   (2025年8月9日 日本キリスト教団神奈川教区 平和集会参加者一同)

10日(日)は礼拝後しばらく懇談し、すぐに散会しました。その後私は片づけをしてから教会を出て、午後1時41分の追浜行きのバスにより、鶴巻には午後3時半過ぎに着きました。

 

この週は、次週の17日の日曜日が私の夏期休暇中ですので、のんびり鶴巻で過ごしました。ただ14日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。さすがにこの時期の国会前の人通りは少なく、旅行者が時々通り過ぎて行くだけでした。午後4時少し前に片づけをして、鶴巻に帰ってきました。

 

15日(金)は終戦記念日でした。連れ合いが生きていた時には、彼女は8月15日が近づくと毎年落ち込んでいるのが分りました。この日は彼女の父親が戦死した日とされているからです。

 

彼女の父親は大学を出て明治乳業に勤めていましたが、小樽勤務時代に献身して同志社大学神学部に入り、1943年(昭和18年)に卒業し、結婚して奉天の組合教会の副牧師をして赴任します。

 

当時奉天は住宅事情が悪く、最初単身で赴任し、その後しばらくして奉天での二人の生活が半年ほど続いた時に、父は召集されて、実家が横浜でしたので横浜に帰り、溝の口連隊に入隊して、満州北部に派遣されました。

 

その間母が彼女を宿し、彼女は父親の実家で1944年(昭和19年)3月19日に生まれました。父親は彼女が生まれたことは母親の手紙で知っていましたが、生前に彼女に一度も会うことなく、満州北部の部隊にいた父親は、戦闘ではなく、ソ連軍の南下のドサクサで亡くなりましたが、8月15日に戦死したとう扱いにされました。

 

父親の母で、彼女の祖母は戦後しばらく息子である彼女の父親の死の実相を、家族が配慮しては聞かされていませんでした。ですから戦後しばらくは中国大陸から横浜に帰還する兵士の中に自分の息子がいるのではないかと、彼女の祖母は待ちわびていたそうです。その後彼女の祖母は、息子の死を知り、彼女の母親が戦後結核で療養所生活をするようになったので、彼女の祖父と相談して、彼女を自分たちの養女として育てました。

 

そういう生い立ちがあるので、彼女は8月15日が近づくと落ち込んでいたのではないかと思います。

 

15日の昼過ぎ私は鶴巻を出て船越教会に行きました。17日(日)の週報印刷と教区の9月21日(日)開催の第2回オリエンテーションの案内等の印刷をするためです。30分ほどで印刷は終り、17日(日)の週報は教会の受付テーブルに置き、オリエンテーションの印刷物を持って、鶴巻に帰り、発送作業をして投函しました。

 

16日(土)には娘が自動車で七沢温泉にある七沢荘の日帰り温泉に連れて行ってくれました。実はいつも利用している鶴巻の秦野市営の日帰り温泉弘法の里湯が8月中修理のために休館していますので、この日は久しぶりの温泉を楽しむことができました。七沢荘の温泉は入っていると肌がすべすべする泉質で、気持ちよく入ることができました。

 

七沢温泉には青年時代に一度か二度紅葉坂教会の中高生か青年会のキャンプで来たことがあります。また、私の父が1970年に70歳で脳溢血で半身不随になった時に、既に私は牧師になって私の家族と共に最初の任地である東京の足立区にある足立梅田教会の近くに住んでいましたが、半年ほど横浜の実家に帰って、私たちが父の面倒を見ました。父はその後当時出来たばかりの県立の七沢リハビリステーション病院に半年ほど入院したことがありました。父は心臓に問題があったらしく、リハビリは余り行えずに退院しました。その間私の三つ上の兄が結婚し、父はその後15年間兄家族と生活して、85歳で亡くなりました。そんな思い出のある七沢温泉に行くことできました。

 

17日(日)は、他の教会の礼拝に出席することも考えましたが、午前中家で一人で礼拝を守りました。

 

この週ものんびり過ごさせてもらいましたが、21日(木)だけ国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。この日は第3木曜日に行なわれる宗教者平和ネットの院内集会と抗議行動に来る私の東神大時代の友人が座り込んでいる私の所に寄ってくれて、しばらく話すことができました。最近彼の東神大時代の友人で、私も知っている人が癌の闘病中に誤嚥性肺炎で亡くなり、彼は淋しがっていました。私も彼も既に80歳を過ぎていますので、いつ召されるかわからない年齢ですので、一日一生を大切にして生きて行こうと確認して、彼と別れ、彼は院内集会に行きました。

 

この日は午後5時半ごろ鶴巻に帰って、すぐ食事をして、午後7時からの支援会世話人・事務局のZoom会議に備えました。この日の支援会Zoom会議では、主に9月15日(月・休)の第7回支援コンサートやその後の支援コンサートの予定について話し合いました。