注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
(ローマ5:5)
③ 讃 美 歌 8(心の底より)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-008.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編46編1-8節(讃美歌交読文159頁)
⑥ 聖 書 ペテロの手紙一5章5b~11節(新約434頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 457(神はわが力)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-457.htm
説 教 「踏みとどまる」
今年は戦後80年になりますが、戦後の日本社会の中で私たちキリスト者(教徒)がその信仰を貫いていくために死を覚悟しなければならない状況はほとんどないと思われます。
しかし、古代社会以来、中世、封建的な社会では、キリスト者は殉教を強いられる状況がありました。日本でも戦国時代の武士社会に入って来たカトリックの信仰を信じたキリシタンの殉教はよく知られています。
村落共同体がまだ濃厚に残っていたり、また明治以降の天皇を現人神とする天皇制絶対主義的な戦前の日本社会では、キリスト者は迫害に近い圧迫を社会から受けていたと思われます。地方の教会では教会に蛇を投げ込まれたというようなことがあったようです。
戦時下ではホーリネス教会の牧師が弾圧を受け、獄中で死亡した牧師もいました。当時の国家の圧力で成立した日本基督教団はホーリネス教会の牧師の弾圧が自分たちにも及ぶのを恐れて、ホーリネス教会の牧師に日本基督教団の牧師の辞任を迫り、弾圧を受けた牧師やその教会、家族を支えるのではなく、切り捨てたのです。
このように日本の社会でも、戦前はキリスト者の弾圧・迫害がありましたが、現在では殆どありません。私たちキリスト者が弾圧や迫害のない社会に生きていることは喜ばしいことですが、そうだからと言って、私たちキリスト者の信仰が生き生きとしているかどうかは別問題です。
ほとんど抵抗を受けずに信仰生活を過ごすことは、返って私たちの信仰がいい加減なものになってしまうという危険性もあるのではないかと思われるからです。
先ほど司会者に読んでいただいたペテロの手紙一の箇所には、この世で何らかの形で苦しみに遭っているキリスト者への勧めが語られています。8節、9節をもう一度読んでみます。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」。
ここにはペテロの手紙一が宛てられた教会の信徒が、信仰者ゆえの苦しみをこの世で経験していることが記されています。その苦しみは、ローマ帝国による公式の迫害によるものというよりは、教会のあった地域社会からの誹謗中傷、いやがらせのようなものであったようです。
ペテロの手紙一は90年代に書かれた手紙と言われていますので、2世紀になってから起こったローマ皇帝によるキリスト教徒の迫害とは違いますが、「悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている」という言い方からすると、それなりに大変厳しい苦難であったことが想像できます。
そのような状況にありましたこの手紙が宛てられた教会の信仰者に対して、この手紙の著者は、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」と言って、「信仰にしっかり踏みとどまって」生きていくことを促し勧めているのです。
今日の説教題「踏みとどまる」は、この「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」からつけました。さて現代社会に生きる私たちキリスト者にとってこの「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」という勧めは、どのように受け止めることができるのでしょうか。
まず「悪魔」を「世」に置き換えてみますと、「信仰にしっかり踏みとどまって、世に抵抗しなさい」となります。この勧めは、ヨハネによる福音書の16章33節のイエスの告別説教(14章から16章)の最後に弟子たちに語られたイエスの言葉と共通しているように思われます。このイエスの告別説教は、ヨハネによる福音書ではイエスが十字架にかかる前に弟子たちに語られた説教という形になっています。
その最後のイエスの言葉は、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)です。
ヨハネによる福音書では世は暗闇で神と共にあるイエスは光です(ヨハネ1:1-5)。信仰者であるイエスの弟子たちは、ぶどうの木であるイエスの枝です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)。イエスの弟子である信仰者は、ぶどうの木と枝のようにイエスと繋がっていることによって実を結ぶというのです。
告別の説教でイエスは信仰者である弟子たちにこのようにも語っています。「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。…わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(15:9-14)。
私たちは生来誰にもエゴイストなところがあって、イエスを信じて、イエスに信頼して生きていこうとしながら、生来の自分が自分の中心に居座り続けていることに愕然としてしまうこともしばしばでしょう。
しかし、信仰とは、それでもイエスとの関係性を放棄しないで歩み続けることではないかと思います。その積み重ねの中で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:8)と、少しずつパウロのように言えるように近づいていくのではないでしょうか。
そのような信仰者の歩みの中で、イエスからイエスの友と呼ばれるようになることができるとすれば、信仰者である私たちにとってそれ以上の喜びはありません。
そのような信仰者としてこの世を生きていこうとする時に、ペテロの手紙一の著者の言葉が身に染みて聞こえるのではないでしょうか。「身を慎んで目を覚ましていなさい」。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔(この世の悪しき力)に抵抗しなさい」
信仰者のこの世における生き方については、パウロもこのように記しています。少し長くなりますが、そのところを読んでみたいと思います。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難に耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなうように努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:9-21)。
このような信仰者のこの世における生き方は、世が求めるものではなく、イエスがイエスを信じて生きる信仰者に求める生き方です。世が求めるものは競い合いであり、共生ではありません。人よりも少しでも上に立とうとする生き方が世が求める生き方です。世を支配しているのは権力であり、富(資本)であるからです。
そういう権力や資本にとって、互いに愛し合うとか、互いに仕え合うということは、邪魔なことであって、できるならば否定したいことなのです。利潤を求める企業ではほとんどそんなことは言わないでしょう。ですから、イエスが信仰者に求める生き方を貫こうとすれば世からの抵抗を受けることになるのです。世に抗って生きることになるからです。当然何らかの苦しみも伴います。
ペテロの手紙一の著者は、この世で苦しみに遭っている信仰者を、神は強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださると言うのです。
「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者として、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(5:10)と言って、「力が世々限りなく神にありますように。アーメン」と神讃美をもってこの勧めを終えているのであります。
この手紙の著者は、この世における信仰者の苦しみは、その苦しみを通して神が信仰者を確かな者としてくださると言うのです。信仰者は苦しみを通してより真実な者に変えられていくということでしょうか。
信仰に踏みとどまる者として 今を生きることができますように!
祈ります。
神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。
神さま、わたしたちが信仰に踏みとどまって、この世の現実を生き抜くことができますようにお導きください。
イエスさまからすれば、国や民族が違っても私たち人間は皆神の子どもたちです。イエスさまには、同じ神の子ども同士が戦争をするなどとは考えられません。どうぞ速やかに戦争が終結しますように。
また戦争への準備など必要のない、相互理解とへと私たちを導いてくださいますように。
人間の競い合いの中で様々な苦しみの中にある者をその苦しみから解き放ち、おごり高ぶる者を打ち砕いてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。
アーメン。
- 讃 美 歌 423(人がこの世界に)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-423.htm
- 献 金
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。