なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

降誕前第9主日礼拝説教「起き上がる」ヨハネによる福音書5章1-18節

10月26日(日)降誕前第9主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌     18(心を高くあげよ)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編19編1-7節(讃美歌交読文20頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書5章1-18節(新約171頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   527(み神のみわざは)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-527.htm

  •  説  教   「起き上がる」

 

以前ヨハネによる福音書の説教をしたときには、今日のヨハネによる福音書5章1-18節を、1-9節と10-18節の2ヶ所に分けて説教しました。前半はイエスの奇跡物語、後半は安息日論争になっています。今日はこの二つの物語を続いて記しています5章1-18節の全体からの語りかけを聞きたいと思います。

 

はじめに38年間病気で苦しんでいる人がいたベテスダの池の状況をお話ししますので、これをガザのパレスチナ人やグローバルサウスの貧困のため幼い子どもの命が失われていく現在世界の悲惨と重ねてお聞きください。

 

エルサレムの東北に羊の門と呼ばれる城門があり、その門のそばに、ヘブル語でベテスダ(憐れみの家という意味)と言われる池がありました。この池はおそらく間欠泉で、時折鉱泉が底から湧き出て、水面を動かすことがあったのではないかと思われます。そしてその水が動いた時に、この池にまっ先に入った者は、どんな病気でも癒されるという言い伝えがありました。天使が水を動かすのだとも、また天使が池で水浴びをするので、その天使の癒しの力が水の中に残るのだ、というようにも考えられていたようです。

 

「そこには五つの回廊があった」とありますように、<この池を取り囲んで、太い柱の立った大きな五つのホールのようなものがあり、そこには≪病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた≫(3節)と言われています。

 

みな長年の病気のために、色青ざめて、衰弱し切った人々です。そういう無数の人々がここに集まり、その目を一斉に水の面に向けて、水の動くのを待っている。そして水が動くや否や、誰よりも先にその中に飛び込まなければならないのです。

 

他の人を乗り越えてでも、また押しのけてでも、真っ先に水の中に入らなければならないのです。そのような思いで、そこに集まった人々は、おそらく皆、殺気立っていたにちがいありません。それは本当にすさまじい異常で悲惨な光景だと言わなければならないと思います。

 

≪そこに38年も病気で苦しんだ人がいた≫(5節)というのです。彼もまた、他の病人と同じようにベテスダの池の回廊に横たわって、癒されることを、その時を、いつとも知れず待ち続けていたのです。

 

彼は38年もの間、水の動くたびに真っ先に水の中に飛び込むチャンスをねらい続け、その時をつかむことができませんでした。それはおそらく彼の病のためであったと思われます。彼は病気のために、水が動いた時に素早く飛び込むことができない不自由な体だったのかも知れません。

 

それだけではなく、そこに横たわっていた病人たちは、水が動くたびに、我先にと、彼を差し置いて飛び込んだからでしょう。病人たちの中にあった生存競争の激烈さのためでもあったと思われます。彼は自分の力では、池に入ることができませんでした。

 

誰もが、一刻も早く癒されたいと願い、水が動いたら一番に入る機会を狙っているこの池のほとりには、彼の病気をいたわってくれる人や親切な人はいたかもしれませんが、彼を一番に池に入れようとする人はいませんでした。誰でも、自分の病気が癒されることをまず第一に考えていたからです。それが人間というものなのでしょう。

 

≪イエスは、その病人が横たわっているのを見て、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた≫(6節)というのです。

 

38年間も闘病している人に対して「良くなりたいか」と聞くのは、ある意味で、非常識な質問にすら聞こえるかも知れません。健康になりたいに決まっているではないかと。

 

けれども、38年間も癒されたいと願って、かなえられなかったこの病人にとっては、その38年という長い期間に費やされた彼や家族の汗と涙と祈りと経済力を考えざるを得なかったに違いありません。

 

その間に心身共にすり切れ果てて横たわっている彼にとって、おそらく、もはや自分にはいやされる機会はない、だれも助けてくれないという実感が全身を浸していたのではないでしょうか。

 

それはこの病者の静かなる絶望、あるいは絶望への安住であったのではないでしょうか。良くなりたいに決まっているのだけれども、この病者には、すでにその思いも萎えてしまっていたのではないでしょうか。イエスは彼に、「良くなりたいか」と聞くことによって、その絶望から彼をもう一度呼び出しているのではないでしょうか。

 

《病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。それは救いへの絶望と共に隣人への絶望でもありました。

 

だれも自分を池の中に連れて行ってくれないからという、責任を他者に課していやされないことへの理由として絶望に安住していることになります。池のかたわらにいやされるべく身を横たえ水の動くのを待っている、しかしそれは表面的形式的なことで、もはや救いがないことを暗黙の了解事項として彼は横たわり続けているのです。

 

彼の中には希望が失われつつあり、救い手への信頼もないというのが、このときの彼の状況ではなかったでしょうか。

 

病者はそこに救いがあると約束されている場所に身を置いて38年も求め通いつめているのです。天使が来て水をかきまわしたら池に入ろうと身構えていますが、何も起こりません。水が動いていたときその恩恵に浴するのは他人であり自分ではないからです。そういう状況がこの病者の状況です。

 

エスが見いだしたのはそういう人の姿でありました。《良くなりたいか》というイエスの問いは、病者を本来の位置に引き戻す力をもっています。本当に、真剣によくなりたいか、救われたいのかという問いです。

 

と同時に、この質問の形で語られたイエスの言葉には、この孤独な病人に対するイエスの無限の憐れみを読み取ることができます

 

私たちはこの言葉の中に、この病人の不幸に対するイエスの深い洞察と理解、そしてこの病人の不幸をわがこととして担おうとする姿勢――それを聞きとることができるように思います。

 

その人を原点に引き戻したところで《エスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」》(8節)と。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した(9節)。

 

ここに「歩きなさい」と訳されている言葉は、単に「歩く」ということではなくて、「歩きまわる」という意味だと言われています。このイエスの言葉によって、病人は起き上がり、自分の床をかついて歩き廻るわけです。

 

病の床にしばりつけられていたこの男の38年間の重く苦しい人生はここで終わり、自分の足で立って自由に歩くことの出来る新しい人生が開かれたのです。この男は、どんなにか喜び勇んで大地をふみしめ、イエスによる救いの確かさを味わいつつ、歩いて行ったことでしょうか。

 

「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント、5:17)と言われているようにです。

 

救いとは現実からの逃避ではなく、現実との妥協、あきらめでもありません。また現実の中への安住、自己放棄でもありません。自分をむしばみつつある現実からの確かなる解放であり、自らが苦悩と重荷とを担って歩むことであります。

 

自分を呪縛していた現実を、逆に担って歩き出すことがイエスによって可能とされるのです。人間を滅ぼすような現実を担って歩むこと、それはまさに主イエスの十字架の姿であり、また十字架の贖罪と復活の命にあずかって初めて起こり得る救いであります。それゆえに、イエスの言葉には力があります。イエスが既に共にこの現実を負うていてくださるからであります。

 

 38年もの間病気であった人が癒されたとすれば、誰でも驚き、その癒された人のことを憶えて、「よかったですね!」と言って喜ぶのではないかと思います。けれども、ヨハネによる福音書では、その癒しが安息日に行われたので、喜ぶどころか、「ユダヤ人たち」は律法違反ではないかと、床を担いで歩きだした病気を癒された人をとがめると共に、その人の病気を癒したイエスを追及し、迫害し始めたというのです(16節)。

 

それに対して、イエスは、17節で、「わたしの父は今もなお働いておられる。わたしも働くのである」と答えているのです。38年間、病気で苦しんできた病人に対するイエスの癒しの働きの背後にも、この言葉がありました。

 

私たちが生きている今の世界の現実も、このベテスダの池のほとりの光景が示しているように、苦しみと悲惨とに充ちているのではないでしょうか。ガザの人々をはじめ、絶対的な貧困で苦しむ人も多く、格差社会の中での貧困で苦しんでいる人も沢山います。差別や偏見で苦しむ人も跡を絶ちません。

 

そういう中で、神の創造の御業は、まだ決してその目標に達したとはいえないのですから、神はその中で今日も働いているのです。したがって、その神の独り子であるイエスも、その働きをやめることはできないのです。

 

ですからイエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。わたしも働くのである」と言われます。そして、たとえ安息日の規定があっても、彼の働きが、安息日の枠によって制約されるということはありあません。彼の働きは、安息日の枠を突破して前進して行きます。前進することをやめないのです。

 

エスはそのように安息日の規定を突破することによって、安息日の本来の主旨を生かします。安息日に敢えて病人を癒すことによって、安息日を定められた父なる神の意志を本当に生かされるのです。ですからイエスは、17節で、「わたしの父は今もなお働いておられる。わたしも働くのである」と言われるのです。

 

そのような働きの一つとして、このベテスダの池のほとりで、38年間病気に苦しんできたこの病人が、その苦しみから解放されました。もちろんそれは、一つのしるしに過ぎません。

 

すなわちそれは、結局、もっと大切なものを指し示す指標にすぎません。それゆえに、ここで癒されたこの病人も、やがてはいつか死ななければならないのです。しかし、この病人の癒しにおいて示された神の意志――すなわち、すべての人間を生かそうとされる神の意志には変わりはありません。

 

そして、そういう神の意志の中で、神の独り子イエス・キリストは働いていて、今も働くことをやめません。世界は、このベテスダの池のほとりの光景が示しているように、苦しみと悲惨とに充ちていますが、ベテスダの池のほとりで起こった癒しは、今日もやはり起こっているのではないでしょうか。

 

私たちは、そのように今日も働いておられるイエス・キリストの働きに、神を礼拝しつつ、共に参与する者として招かれているのではないでしょうか。

 

「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント、5:17)

 

主が私たちを、苦しむ人をその苦しみから解放するために働いておられる神の働きを担われたイエスに倣って生きることが出来るように、導いて下さいますように!

 

祈ります。

 

  •  神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今も病気や様々な苦しみに打ちひしがれているか方々が、私たちの中には多くおられます。その苦しみからの解放の音ずれが一人一人にもたらされますようにお導きください。私たちに病者や様々な苦しみに打ちひしがれた方々と共にその重荷を担う力をお与えください。
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病や様々な苦しみの中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

 

⑩ 讃 美 歌    355(主をほめよ わが心)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-355.htm

  • 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                        

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。