なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(22)「起き上がりなさい」ヨハネ5:1-9a

6月25(日)聖霊降臨節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     11(感謝にみちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編23編1-6節(讃美歌交読文25頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書5章1-9節a(新約171頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    418(キリストのしもべたしよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-418.htm

⑨ 説  教   「起き上がりなさい」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日のヨハネによる福音書5章1-9節前半までに記されているのは、池の水が動いた時にまっ先に池に入ると病気が良くなるという言い伝えを聞いて集まっていた病人たちがその機会を得ずにいたのですが、その中の38年も病気で苦しんでいた人がイエスによっていやされたということがここに記されています。

 

先ず1節に、≪その後、ユダヤ人の祭があった。そしてイエスエルサレムに上った≫(田川訳)とあります。共観福音書ではイエスエルサレムに行ったのは、彼の公生涯の最後の時期で、一回限りです。ところがヨハネ福音書ではイエスエルサレムに行ったのは、一回だけではなく、数回(4回、2:13,3:17:10,12:12)にわたっています。2章13節ではイエスエルサレムに行ったのは、過越しの祭の時であると言われていますが、この5章1節では、「ユダヤ人の祭り」と言われているだけで、どの祭であるか特定されていません。当時、大切な祭りとされていたのが、過越し祭、五旬節、仮庵の祭の三つであったと言われていますが、そのどれであるかははっきりしません。

 

ユダヤ人の祭り」という言い方について、田川さんはこんなことを言っています。<エルサレムの祭なら、ユダヤ人の祭りに決まっている。それをわざわざ「ユダヤ人の祭」と言うところが、この著者がユダヤ人全般に対して距離感を持っている証拠である。「あの連中の祭」、という感じ。著者自身がユダヤ人である、ないしユダヤ人の出身であるから、かえって、ユダヤ教を中心としたユダヤ民族主義社会のあり方に対して強度な批判意識を持つことになる。自分がその中で生きてよく知っているからこそ、こういう批判的距離感を持つのである>と。「ユダヤ人の祭り」という言い方には、ヨハネ福音書の著者にはそういう意識があるのかも知れません。

 

次の2節から4節にかけては、やがてここで起こる癒しの出来事が、どういう場所で、またどういう状況の中で起こったのかということが、記されています。≪エルサレムには、羊の(門のところ)に、ヘブライ語でベートサダ(新共同訳では「ベトサダ」)とあだ名されている溜め池があり、そこに五つの柱廊があった。その柱廊のところに多くの病人が横たわっていた。盲人や、足なえや、なえた人など。〔彼らは水の動きを待っていたのである。というのも、時が来ると天使が溜め池に下って来て水を動かしたので、それで、水の動きの後、最初に中に入った者が罹っていた何らかの病気から癒されたのである。〕≫(2-4節、田川訳)と、書いてあります。

 

エルサレムの東北に羊の門と呼ばれる城門があり、その門のそばに、ヘブル語でベートサダ(憐れみの家という意味)と言われる池がありました。この池はおそらく間欠泉で、時折鉱泉が底から湧き出て、水面を動かすことがあったのではないかと思われます。そしてその水が動いた時に、この池にまっ先に入った者は、どんな病気でも癒されるという言い伝えがありました。天使が水を動かすのだとも、また天使が池で水浴びをするので、その天使の癒しの力が水の中に残るのだ、というようにも考えられていたようです。

 

そういう水の力に対する信仰は、日本でも決して珍しいものではありませんが、当時の人々も、そのような水の特別な力を信じて、その恩恵に与り、病気を治してもらいたいという切実な願いを持って、この池の回りに集まっていたのでしょう。「そこに五つの柱廊があった」とありますように、<この池を取り囲んで、太い柱の立った大きな五つのホールのようなものがあり、そこに、そういった人々がひしめいていた光景が、想像できると思います>(井上良雄)。

 

そこには、≪盲人や、足なえや、なえた人(やせ衰えた人)など≫(3節)と言われている多くの病人が横たわっていました。<みな長年の病気のために、色青ざめて、衰弱し切った人々です。そういう無数の人々がここに集まり、その目を一斉に水の面に向けて、水の動くのを待っている。そして水が動くや否や、誰よりも先にその中に飛び込まなければならない。他の人を乗り越えてでも、また押しのけてでも、真っ先に水の中に入らなければならないのです。そのような思いで、そこに集まった人々は、おそらく皆、殺気立っていたにちがいありません。それは本当にすさまじい異常で悲惨な光景だと言わなければならないと思います>(井上良雄)。

 

≪そこに、三十八年も病気だった人がいた≫(5節、田川訳)というのです。彼もまた、他の病人と同じようにベートサダの池の柱廊に横たわって、癒されることを、その時を、いつとも知れず待ち続けていたのです。彼は38年もの間、水の動くたびに真っ先に水の中に飛び込むチャンスをねらい続け、その時をつかむことができませんでした。それはおそらく彼の病のためであったと思われます。彼は病気のために、水が動いた時に素早く飛び込むことができない不自由な体だったのかも知れません。それだけではなく、そこに横たわっていた病人たちは、水が動くたびに、我先にと、彼を差し置いて飛び込んだからでしょう。病人たちの中にあった生存競争の激烈さのためでもあったと思われます。彼は自分の力では、池に入ることができませんでした。誰もが、一刻も早く癒されたいと願い、水が動いたら一番に入る機会を狙っているこの池のほとりには、彼の病気をいたわってくれる人や親切な人はいたかもしれませんが、彼を一番に池に入れようとする人はいませんでした。誰でも、自分の病気が癒されることをまず第一に考えていたからです。それが人間というものなのでしょう。

 

≪イエスはこの者が横たわっているのを見て、かつ、この者がすでに長い期間そうであったのを知って、この者に言う、「健康になりたいのですか」≫(6節、田川訳)。

 

38年間も闘病している人に対して「健康になりたいのですか」と聞くのは、ある意味で、非常識な質問にすら聞こえるかも知れません。健康になりたいに決まっているではないかと。けれども、38年間も癒されたいと願って、かなえられなかったこの病人にとっては、その38年という長い期間に費やされた彼や家族の汗と涙と祈りと経済力を考えざるを得なかったに違いありません。その間に心身共にすり切れ果てて横たわっている彼にとって、おそらく、もはや自分にはいやされる機会はない、だれも助けてくれないという実感が全身を浸していたではないでしょうか。それはこの病者の静かなる絶望、あるいは絶望への安住であったのではないでしょうか。健康になりたいに決まっているのだけれども、この病者には、すでにその思いも萎えてしまっていたのではないでしょうか。イエスは彼に、「健康になりたいのですか」と聞くことによって、その絶望から彼をもう一度呼び出しているのではないでしょうか。

 

《その病人が彼に答えた、「ご主人、水が動く時に私を溜め池の中に投げ入れてくれる人がいないのです」(7節、田川訳)。それは救いへの絶望と共に隣人への絶望でもありました。だれも自分を池の中に連れて行ってくれないからという、責任を他者に課していやされないことへの理由として絶望に安住していることになります。池のかたわらにいやされるべく身を横たえ水の動くのを待っている、しかしそれは表面的形式的なことで、もはや救いがないことを暗黙の了解事項として彼は横たわり続けているのです。彼の中には希望が失われつつあり、救い手への信頼もないというのが、このときの彼の状況ではなかったでしょうか。病者はそこに救いがあると約束されている場所に身を置いて38年も求め通いつめているのです。天使が来て水をかきまわしたら池に入ろうと身構えていますが、何も起こりません。水が動いていたときその恩恵に浴するのは他人であり自分ではないからです。そういう状況がこの病者の状況です。

 

エスが見いだしたのはそういう人の姿でありました。《健康になりたいのですか》というイエスの問いは、病者を本来の位置に引き戻す力をもっています。本当に、真剣によくなりたいか、救われたいのかという問いです。と同時に、この質問の形で語られたイエスの言葉には、<この孤独な病人に対するイエスの無限の憐れみを読み取ることができます。私たちの言い方で言い直せば、「お前はなおりたいのだろうね」という言葉になるでしょうか。私たちはこの言葉の中に、この病人の不幸に対するイエスの深い洞察と理解、そしてこの病人の不幸をわがこととして担おうとする姿勢――それを聞きとることができるように思います>(井上良雄)。

 

その人を原点に引き戻したところで《彼にイエスは言う、「起きよ、自分の床を担って歩め」》(8節、田川訳)と。

 

ここに「歩め」と訳されている言葉は、単に「歩く」ということではなくて、「歩きまわる」という意味だと言われています。このイエスの言葉によって、病人は起き上がり、自分の床をかついて歩き廻るわけです。

 

≪その人はただちに健やかになり、自分の寝床を担いだ。そして歩き出したのである≫(9節、田川訳)。

 

今、彼がかついているのは、もちろんベットというような大袈裟なものではなく、マットレスのような手軽なものであったでしょうか。しかしそれにしても、それは、これまでの彼の三十八年の苦しみがーーあるいはその汗と涙が、染み込んだ、彼の生涯そのもののようなマットレスです。そういうマットレスを、今彼はかつて歩き廻っているのです。そのマットレスは、彼の頭上で、新しく始まった彼の生活の象徴のように踊っています。それは実に大きな変化ということができます。

病の床にしばりつけられていたこの男の三十八年間の重く苦しい人生はここで終わり、自分の足で立って自由に歩くことの出来る新しい人生が開かれたのです。この男は、どんなにか喜び勇んで大地をすみしめ、イエスによる救いの確かさを味わいつつ、歩いて行ったことでしょうか。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント、5:17)。

 

救いとは現実からの逃避ではなく、現実との妥協、あきらめでもありません。また現実の中への安住、自己放棄でもありません。自分をむしばみつつある現実からの確かなる解放であり、自らが苦悩と重荷とを担って歩むことであります。自分を呪縛していた現実を、逆に担って歩き出すことがイエスによって可能とされるのです。人間を滅ぼすような現実を担って歩むこと、それはまさに主イエスの十字架の姿であり、また十字架の贖罪と復活の命にあずかって初めて起こり得る救いであります。それゆえに、イエスの言葉には力があります。イエスが既に共にこの現実を負うていてくださるからであります。

 

ブルームハルトは、「罪人がいるだけではない。苦しむ人間もいる」と言っているそうです。自己中心的な罪人としての私たちが、イエスとの出会いを通して、その罪の支配から解放されて、神を信じて隣人と共に生きていくことも、人間の解放ですが、同時に苦しむ人間がその孤独な苦しみから解放されて、隣人と共にその荷を背負って希望をもって生きるようになることも、人間解放の出来事です。イエスは病者の苦しみを、自らの苦しみとして担うことによって、その道を私たちに示して下さっているのではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今も病気による苦しみに打ちひしがれているか方々が、私たちの中には多くおられます。その苦しみからの解放の音ずれが一人一人にもたらされますようにお導きください。私たちに病者と共にその重荷を担う力をお与えください。
  • 神さま、23日は沖縄の慰霊の日でした。今岸田政権はアメリカと一体となって、中国や北朝鮮の脅威を煽り、軍備増強路線を歩んでいます。神さま、軍事力によっては、平和は生まれません。人の命と生活が奪われるだけです。二度と再び同じ過ちを繰り返すことがないように、私たちを導いてください。憲法第9条に基づいて、武力によらない世界平和をつくり出していくことができますように。
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。