※この日の説教はほとんどバルトの引用です。「死に対する恐れ」と「神は死の主人」というバルトの『一日一章』を読んでいましたので、それ以上のことは言えませんし、それ以下のことも言えませんでした。バルトの表現は緻密ですので、その意味を掴みにくいかも知れませんが、ご容赦ください。
11月16日(日)降誕前第6(終末前)主日礼拝
注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。
(各自黙祷)
② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」
(詩編100:1-2)
③ 讃 美 歌 151(主をほまたたえよ)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-151.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編77編5-16節(讃美歌交読文83頁)
⑥ 聖 書 ヨブ記14章1-17節(旧約792頁)
ルカによる福音書6章27-38節(新約113頁)
⓻ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 236(見張りの人よ)
https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-236.htm
- 説 教 「死の不安」 北村慈郎牧師
今日の週報を御覧になってください。この日は教会歴の「降誕前第6主日」になっています。これは日本基督教団の牧会手帳によるものです。私は現在説教のテキストを、聖書日課であるローズンゲンの主日箇所の説教箇所から選んでいます。ローズンゲンではこの日の教会歴は「終末前主日」になっています。来週の11月23日(日)が「終末主日」で(牧会手帳では「降誕前第5主日」)、11月30日(日)からアドベントになります。1年はアドベントから始まりますので、アドベントの前の日曜日が終末主日、その前が終末前主日になるわけです。
今日は「終末前主日」ですので、ローズンゲンでは人間の終末との関連での人間の死について語られているヨブ記14章1~17節が選ばれているのではなかと思われます。
現代人である私たちにとって人間の死は、老病死と言われる自然死だけでなく、事故や殺人、戦争や貧困という暴力的に強制された死も多く、また生活が厳しく、生き延びることに全精力を注がざるを得ないので、自分の死について静かに思いめぐらす時は少ないかもしれません。
しかし、死について思いめぐらすことは、自分がどう生きていくかということに密接に関わっていますので、今日はこのヨブ記の箇所から語りかけを聞きたいと思います。
ヨブ記のヨブについはい御存じの方も多いと思いますが、彼は苦難に出会う前は、財産にも家族にも大変恵まれた人物でした。
このヨブ記は一種のドラマに近い文学作品ですので、サタンが神に賭けを申し出て、神がその賭けに乗るという形で描かれています。サタンは、「ヨブは恵まれているから神を信じるので、ヨブからその恵みを奪えば、彼は神を呪うに違いない」と、神に賭けを申し出ます。
神はサタンのその賭けに乗り、ヨブの命だけは奪ってはならないという条件で、サタンにヨブを委ねます。サタンはヨブから財産を奪い、家族を奪い、ヨブをできものだらけの身体(からだ)にします。ヨブは陶器の破片で体をかきむしったと言われています。しかし、ヨブは神を呪いません。
友人たちは、ヨブは罪を犯したから、神に見捨てられたのだという因果応報の思想からヨブを責めますが、ヨブは納得できません。そういうヨブ記の中のヨブの言葉として、今日の14章1-17節があるのであります。
14章1-12節について、和田幹男さんはこのように述べています。「ここでヨブは自分の境遇を省察しながら人間とその人生一般について語る。沈黙する神の御前に、悲惨さを味わわされ絶望の渕をさまよう自分を凝視し、人間そのものを考える。この嘆きの詩は、ヨブ記の中で最も美しい章と言えよう」(新共同訳聖書注解ヨブ記)と。
この部分を岩波版の並木浩一訳で、もう一度読んでみたいと思います。
「女から生まれる人、/彼の日々は短くて騒動に満ち、/育っては枯れる花のように、/逃げ去る影のように、留まることがない。/あなたはこのような者にも目を見開き、/私をあなたとの裁判に引き出すのですか。」(14:1~3、並木訳)
「ヨブは神の正義を公正な法廷で問いたいが、ここでのヨブは、彼を攻撃する神が裁判者として自分に判決を言い渡すだけではないかと考え、神の一方的な『裁きの場』に彼が力ずくで引き出されるのだと感じている」(並木)のです。
「彼の日々の数は決められており、/その月の数はあなたに委ねられている。/あなたは彼が越えることができない諸々の境界を設ける。/彼から目を離し、止めてもらいたい、/彼が日雇い人のようにその日々を楽しむようになるために」(14:4-6、並木訳)。
「日雇い人は賃金のためにのみ、日々つらい労働に耐えるに過ぎず、夜に一息つくだけで、日々を楽しむどころではない。しかしそれでも、何の希望もない昼夜を耐えるよりはまだましであると、ヨブは自嘲気味に主張」(並木)しているのです。
ここでヨブが語っている神の裁きとしての死について、私が朝の祈りの時に毎日、日課の聖書箇所と共に読んでいます『カール・バルトの「一日一章」』が、たまたま11月6日が「死に対する恐れ」、11月7日が「神は死の主人」でしたので、そのところを紹介したいと思います。
(以下はほぼバルトによります)
死に対する不安を持たったことのない人間は、いまだ一人もいないのではないでしょうか。この死の不安を、人間の生は全て限りあるものなのだと自分に言い聞かせて、鈍らせることはできます。しかしそうすることは、やはり不安があることを示すに過ぎません。
人間は「生の不安」の中で暮らしています。そしてその「生の不安」は、そのすべての形において、結局は打ち明けることのできない「死の不安」ではないでしょうか。
だからといって次のように自分で思い込むこともできません。死は私たちの頭上にくだされている神の裁きの徴として、死の不安と死の不安の中で過ごした命として自然であり、当然であり、良いのだと――神により積極的に意図され整えられたという意味で、良いのだと。
私たちは、もし事柄がそれほど危険ではない、いやそれどころか喜ばしく私たちに歓迎されると思い込もうとするなら、自分の罪と罪過を忘れているにちがいないでしょう。死を恐れる者は従って、彼がそのことを少々明白な仕方で明らかにする時でも、死を恐れる者は、あるいはまるで死を恐れる必要はないかのように振る舞う者より、いずれにせよ真実に近いのです。
なぜなら死は、人間の罪と罪過にくだされた神の審判の徴であるので、死は非常に恐れなければならず、死は「眠りの兄弟」あるいは私たちの友あるいは全く解放者などと言うことは、何の役にも立ちません。それはその不真面目さが現実を前にすればシャボン玉のようにはじける他はない常套句です。
自然の人間的存在はその最後に対して抵抗します――その最後自体に対して必然的ではなくても、とにかく私たちの罪と罪過から心に思い描く最後に対して抵抗します。そして、たとえその抵抗が無力であろうと、そうするのは正しいのです。
死は神の審判の徴であるのですから、死が出会いうるのは、何といっても自然の、普通の被造物からはその「ため息」だけです。自らの時間の有限性の意味を誠実に問い続けようとするなら、このことを私たちが理解し、心に留めなければならないものです。
(バルト『一日一章』11月6日「死に対する恐れ」より)
そのような人間に対して、自然の樹木には望みがあると、ヨブはこのように述べています。
「まことに、木には望みがある、/伐られても、また芽吹き、/その若枝が尽きることなない。/その根が地中で古び、/茎が塵の中に死んでも、/水の湿りをもらって萌え出て、/苗木のように若枝を伸ばす。しかし、人間は死ぬと無力になり、/人は息絶えれば、どこかに消える」(7-10節、並木訳)
神に定められた人生は(5節)、枯れていても水があれば芽をふきだす木よりも惨めだというのです。人間は死んでしまえば、全く消えてなくなる(10節)からだと。
(以下はほぼバルトによります)
私たちが終わりになるところの前方に、いずれにしても死だけでなく、「神」も私たちを待っておられます。本来本当は、あの敵ではなく、神がそこで恐れられなければなりません。死の中には死自身ではなく、神が死の中におられます。従って、神を相手にすることになるのです、私たちに対し腹を立て、私たちを死に罰せられる神と、だがまた死だけはなく神と!
さてところで双方、神と死は、同じ身分の、等価値の、同等に力のある二人の相手ではありません。「死は神と並んで」いるなどとは何事でしょうか! 死の力の本質は何といっても、神に抵抗して戦う被造物、罪を負って有罪の人間に、神に対する人間の虚無を認めさせることにあります。しかも死はそれを自らはできず、神への任務と奉仕においてのみなしうるのです。
死は混沌に、神が意図せず創りもなさらなかった世界に属します。死は「神の否の下」におり、死が神により否定されているという点でのみ存在しており、神により意図され創られた世界が、神により肯定されている限りでのみ存在しているのと同じです。
死は神と人間の間の不和のあの空虚な場所で、形、力と働きをえなければならないということ、私たちは死において神により意図され創られた世界の中へ人間の罪と罪過により制約された混沌の進入と関わり合わねばならないということ、それは、死が神のもとにあると同様に、神の被造物の一つと同様に、従って神の力の下で、神の意のままにあるこれらの一つと同様であることを、何ら変わるわけでもありません。
死が私たちの最後の敵であっても、死が私たちに加えようとし、加えることができるものを私たちに加えることは、死の手に与えられてはいません。神が死を投入された、だが神は死を取り除くこともおできになる、神が死を武装させた、たが神は死を武装解除させることもおできになる。神が死に力を与えた、神はそれを死から再び奪うこともおできになる。
ですから、私たちは死において死とだけいるのではなく、第二の神たる死の国にいるのではなく、むしろ死と共に死の主もまたその場に居合わせるでしょう。たしかに裁判官と復讐者として、たしかに私たちが種蒔いたものを死の中にある私たちに収穫させる方として、たしかに私たちがすでに今、そこからさらに一層恐れなければならない方として――だが主は死の主としてもあられるのです。
私たちには死が恐ろしいものであるだろうなら、それは、私たちが死において最終的に生きて働く神の御手の中に落ちるからでしょう。しかし私たちは他の、見知らぬものの手にではなく、神の御手に落ちるでしょう。死はこの出来事において「主」ではなく、単に仕える「僕」に過ぎないでしょう。そこでも唯一主であろうとされる方の意志は、死に対して断乎として自由な意思であります。死はその方に拘束されていますが、その方は死に拘束されてはいません。
神なくして死は私たちにごくわずかでも害を加えることはできないでしょう。神が事態を別なふうにお望みなら、死のそんな意図も私たちに関しては無駄であり、死の力全体は私たちに対して無力であります。ですから私たちは死の只中で死から守られており、死の只中で浄福であるでしょう。
(バルト『一日一章』11月7日「神は死の主人」より)
「神は死の主人である」ということを、私は、連れ合いが抗ガン治療を1年半続けた末に、緩和ケアに移り、1週間後に息を引き取ったのですが、その連れ合いの最後の姿を見ていて、本当にそうなのだと信じることができました。彼女は緩和ケアに移ってしばらく経った時、「もう充分、感謝」と言って、友人との交信も一切断ち、うとうとするようになり、そのまま静かに帰天しました。死の只中で死から神に守られているとしか思えないほど、平安そのものでした。
このヨブ記14章1~17節でのヨブは、苦しみの中で死への不安を持っていたように思われますが、最後に嵐の中からヨブに答えて語る神の言葉を聞いて、ヨブは全てを悟ります。「あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできなと悟りました」(42:2)と。この時ヨブも、「死の只中で死から守られており、死の只中で浄福である」ことができるでしょう。
祈ります。
- 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
- 私たちは個としての人生において、死の恐れと不安を覚えざるを得ません。死への恐れは虚無への恐れかも知れません。しかし、あなたは死の只中においても私たちを守ってくださる方です。どうか私たちが死を恐れず、神の国の到来を信じつつ、最後まであなたに従って生き、そして死ぬことが出来ますように、私たち一人一人をお導き下さい。
- 今苦しみと不安の中にある者に、死の只中においてもあなたが守って下さる方であることを気づかせてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
讃 美 歌 440(備えて祈れ)
⑫ 頌 栄 28
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。