なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

メメント・モリ

★高校生からの質問 Part10★
「人が死んだら、またその後に世界はあるんでしょうか?」。同様の質問として、「死について最近考えることがあるのですが、死とは何か、また死んだらどうなってしまうのでしょうか?」

これも大変難しい質問です。死については多くの哲学書に書かれていますし、人間の永遠のテーマと言ってもよいでしょう。西洋の世界では「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉があり、死を忘れずに意識して生きるときに、深く生きることができるということなのでしょう。

日本人は死を忌避します。死を直視することに耐えられないところがあります。旧約聖書の学者並木浩一さんは、ヨーロッパのある修道院にいったときに、人間の頭蓋骨が沢山置いてあるのを見て、びっくりしたことを、講演の中で話していたことがあります。並木さんはヨーロパ人の死に対する感覚と日本人の感覚の違いを指摘していました。

死は単純に言えば、肉体の死滅です。自然死の場合は、老いの衰弱死や病死ということでしょう。戦争や交通事故などによる死は事故死です。いずれにしても肉体の死滅です。詩人の高村光太郎は「死ねば死にきり、自然は水際立っている」と言っています。一人の人間が死んだからと言って、どうということはない。それは自然の営みの一環であり、人が死んだからと言って、自然は変わらずに存在し続けている、という程の意味でしょうか。そのように人間の死を静に受け入れることができるとすれば、それはすごいことだと思います。でも凡人にはなかなかそのようにはなれません。

私は、死を人間の生涯の最後の一時点という風に考えるよりも、生きている日々の生が死に脅かされているのではと思っています。死に脅かされている生を生きるか、死に打ち勝った命に連なる生を生きるか。私たちの生はどちらかだろうと思っています。

聖書の中でパウロという人は、「日々死に、日々生きる」ということを言っています。今日一日を大事にして生きることが大切で、明日があると思わない方がいのかも知れません。

死後の世界については、誰もいったことがありませんので分かりませんが、生きている者が死後の世界を想像する自由はあるのではないでしょうか。私は死んだ母や父と天国(?)で再開できたらいいなーと思っています。特に母親には謝りたいことがありますので。天国はあるかどうか分かりませんが、最後の審判でこの地上での私たちの行いが公平に裁かれて、新しく神さまの御心にふさわしい者に変えられ、神さまも他の人も裏切ることなく、仲良く天国でみんな一緒に祝宴を開くことができたらいいなー、と思っています。

私は、イエス・キリストにおける神の愛の確かさの延長線上に、そのような死後の世界を想像することがあります。

今回も参考になったかどうか心配ですが、この質問に今私が答えられるのはこれくらいです。