なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

野の花、野の鳥

★高校生からの質問 Part9★
「どうしたら自分を愛することができますか?」

これもなかなか難しい質問です。まず新約聖書のマタイによる福音書の中にありますイエスの山上の説教と言われる教えの一つを紹介しましょう。まずイエスは食べ物のことや着物のことで思いなやむ者に、食べ物や着物よりだいじなのはいのちとからだであることを示し、「空の小鳥たちを見なさい」と言います。小鳥たちは自分で種まきも刈り入れも、集めてものを倉に入れないのに、神さまは小鳥たちを養っておられるのだ。そして「あなたたちは、小鳥たちよりもはるかに価値あるものではないか。あなたたちのだれが、思いなやんで自分の寿命をわずかでものばすことができようか」と言われます。

さらに「野の花がどのように育つか、気をつけて見なさい。苦労するでもなければ、つむぐわけでもない。しかし、ソロモンもその栄華のきわみでさえ、よそおいはこの花の一つほどにもおよばなかった。きょう、生きて、あす炉にくべられる野の草でさえ、神はこのようによそおわせるのだ。あなたたちには、なおさらのことではないか」と続づけます。

そして、「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思いなやむな、こういうことをみな、世の民は追い求めている。これらのものがすべてあなたたちに必要なことを、天の父は知っておられるのだ。/あなたたちは何よりも、まず、神の国と神による解放を求めなさい。そうすれば、こういうものはみな、加えて与えられる。だから、あすのことまで思いなやむな。あすのことは、あす思いなやめばいい。その日の苦労は、その日だけで十分である」
(マタイによる福音書6章25-34、本田哲郎訳)

今でも鮮明に思い出しますが、もう40年近く前に、横浜の寿町と同じ日本の三大寄せ場の一つである山谷の集会所で、既に亡くなった私の尊敬するI牧師が、数名の日雇い労働者を前にして、ボソボソと、上記のイエスの教えについてお話しされたことをです。I牧師は、道端の野の花の根、茎、葉それぞれがどんなに複雑な生命活動をしているかを、懇切丁寧に説明した上で、人間のからだもまた野の花以上に複雑な生命活動をしているのですよ、とおっしゃいました。それは驚きそのものであり、私たちは一人一人その驚きの生命活動があってこそ、今ここにいられるのですと。その時、私は、この自分の体がひと時も休むことなく続けている生命活動の驚きと不思議によって、今ここにあるのだと想うと、自分のからだが何ともいとおしく思えてきたことを思い出します。

もう一つ、私が自分を愛する(大切にする)ことができるのは、この自分が今生きていられるのは、十字架にかかって殺されるまでにイエスさまが私たち一人一人を大切にしてくださったからだということを、聖書から教えられているからです。自分のいのちを粗末にすることは、イエスの死を無駄にすることでもあるからです。

基本的で本質的な質問ですので、あなたの納得できるお答えはできませんが、参考にしてみてください。また、6月4日の「無為の生」もほとんど同じ問題を扱っていますので、そちらも参考にしてみてください。

ああそうだ、自分を愛することができなくても、あなたが誰か人を愛するようになれば、あんたの質問は自ずから氷解するかもしれませんよ。