なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(30)

      「思い悩むな」 マタイ6:25-34、2019年4月7日(日)船越教会礼拝説教


・今日のマタイによる福音書の6章25節以下の「空の鳥、野の花を見よ」というイエスの言葉は、聖書を

読んでいる人の中では沢山の人によって好まれ、自分の愛唱聖句の一つとされている箇所ではないかと思

われます。


・ところで、私たち人間は、生きるためにいろいろと思い悩み、思い煩うことが多いのではないでしょう

か。与えられたこの命を生きるためには、毎日食べていかなければなりません。亜熱帯の一年中暖かな地

域であれば、裸で生活できますが、そうでないこの地球上のほとんどの地域では、体を守るため衣服を必

要としています。イエスの生きたパレスチナも衣服を必要とした地域ではないかと思います。また私たち

が毎日生きていくためには住む所も必要です。衣食住は私たち命与えられた人間が生きていくための基本

的に必要なもので、それがないと命を維持することも出来ません。


・現実の私たちの社会は、「働かざる者食らうべからず」という原理が支配しているかのように思われま

す。相互扶助の理念によって働けない者にも福祉が整っている国の住民は、「働かざる者食らうべから

ず」という原理に支配されることはないかも知れません。そのような国は、現在北欧のいくつかの国よう

に相対的に整っている国はあっても、完全に整っている国は、未だ地球上にはないと思われます。


・ですから、命を維持するために、食べられないことはないかとか、病気になったら大変だとかいう心配

から、私たちは思い悩むことも多いのです。


・そういう私たちに対して、イエスはこのように語っています。≪だから、言っておく。自分の命のこと

で何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな≫(マタイ6:25a)

と。


・実は私自身、連れ合いが癌になって、しかも糖尿病でもあると分かってから、毎日何を食べるかで「思

い悩む」ことが多くなりました。連れ合いは、抗がん剤を二週間毎に体に注入しています。副作用はあま

りないのですが、注入してから数日は体がだるくなるようです。また、人口肛門(ストーマー)をつけて

いますので、健康であった時のように台所仕事ができません。私がいる時は私がするようにしています。

そういう事情もあって、何を食べるかで悩むことが多いのです。ですから、このイエスの言葉は、耳に痛

い言葉ですが、しかし、このイエスの言葉は、私のように連れ合いの病気のため何を食べるかで思い悩む

ことを否定しているわけではないと思っています。


・イエスは続けてこのように語っています。≪命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではな

いか。≫と。本当にそうだと思います。けれども、日本のような現代の資本制社会、特に消費・情報社会

では、基本的な衣食住は殆どの人が満たされていますので、よりおいしい物、より着易くデザインの良い

衣服というように、付加価値のある物をどんどん創り出して、人々に買ってもらわないと商売にならない

わけです。そういう社会で日常を生きていますと、命より食べ物、体より衣服の方が大事に思えてしまう

のです。虚構の社会の中で、私たちは物の考え方を逆転させられてしまうのですね。命より食べ物、体よ

り衣服の方が大事であるかのように。このような社会になっているのは、私たちが神よりも富を追い求め

ているからなのだということを、イエスは見抜いていて、今日の聖書箇所の直前に、≪だれも、二人の主

人に仕えることは出来ない。一方を憎んで、他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽じるか、どちらか

である。あなたがたは神と富とに仕えることはできない≫(マタイ6:24)と語っているのです。


・そこで今日の聖書箇所で、衣食住のことで思い悩む私たちに対して、イエスは、≪空の鳥をよく見なさ

い≫(マタイ6:26)と語り、≪野の花がどのように育つのか、注意して見なさい≫(マタイ6:28)と語って

います。神と被造物の、その間に何も介在したい直接的な関係に生きる動物と植物の代表である「空の

鳥」と「野の花」を指し示しているのです。他者を見て、自分のおかしさに気づく。実際「空の鳥」や

「野の花」をじっとみていると、私たちと違って、与えられたその命をありのままに喜んで生きているよ

うに思われます。


・横田勲さんは、「マタイによる福音書のあの『空の鳥、野の花』のところは、すごく好きなのですが、

あそこのモチーフは自分が《ひとつの自然》であることを喜びなさいということだろうと思います」と

言っています。


・私たち人間が「空の鳥や野の花」と同じ神が創造された「自然のひとつ」とだということに謙虚な人

が、私たちの中にどれ位いるでしょうか。大部分の人が、自分は「空の鳥や野の花」とは違うというよう

に思っているのではないでしょうか。


・イエスが「空の鳥、野の花」を指して語っていることは、こういうことです。空の鳥や野の花にはそれ

ぞれの命の輝き、その働き、仕事があります。


・「空の鳥」は空を飛ぶことです。中には美しい声で鳴く鳥もいます。しかし、空の鳥が空を飛び、囀る

からと言って、そのことによって食べることができるわけではありません。「空の鳥をよく見なさい。種

も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の神は鳥を養ってくださる」(26

節)のです。


・野の花は根を張り、茎を伸ばし、花を開いたりします。しかし、野の花は自分でそれをするのではあり

ません。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えてい

て、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはな

おさらのことではないか」(29-30節)と、イエスは言われます。


・このイエスの教えの中には、空の鳥よりも、私たち人間は「価値あるものではないか」(26節)と言わ

れていますし、「明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あな

たがたはなおさらではないか」と言われています。


・「価値あるものではないか」とか、「あなたがたはなおさらではないか」という言葉から、空の鳥や野

の花と比べて、私たち人間が優れている何かを与えられていると考える人もいるかも知れません。確か

に、「人が意志するとか、選ぶとか、作るとか、考える」とかいうことは、空の鳥や野の花にはない人間

にだけあることでしょう。それは空の鳥や野の花とは違う人間の特徴でしょうが、では、そのことが空の

鳥や野の花と人間が根本的に違うのかと言えば、決してそうではないのです。


・空の鳥が空を飛ぶように、野の花が根を張り、茎を伸ばし、花を開くのと同じように、私たち人間は意

志し、選び、作り、考えるのです。神さまから与えられた賜物です。


・ところが、空の鳥や野の花は、「思い悩む」ことはありません。神さまから与えられ賜物とその生を素

直に生きて、死んでいくだけなのです。自分の寿命を引き伸ばそうとか、自分を美しく着飾ろうとか、そ

ういう作為に満ちたことは、空の鳥や野の花はしない、とイエスはおっしゃいます。人間だけがそれをす

るので、「思い悩む」という病に冒されるというのです。自然でいいのだと。


・けれども、人間が自然であるということは、何も考えないでいいということではありません。意志し、

選び、作り、考えることそれ自身は、神さまから与えられた人間の自然であるわけですから、私たち人間

は主体的に生きていかなければなりません。そういうものを放棄して、何でも誰かがやってくれると思う

ことは、自分で自分の人間性を放棄することに等しいのです。


・人間の美しさは、人間を造ってくださった神さまに自動的に従うのではなくて、与えられた自由をもっ

て自分から喜んで従うことができるところにあるのです。空の鳥や野の花には、この人間に与えられてい

る自由は与えられていません。


・しかし、その人間に与えられた自己決定という自由が、思い悩みの中で歪んでしまうのです。自分で自

分を守ろうとして、明日を心配して貯えようとします。自分で自分を守ろうとするために、自分はどう

なっちゃうのかという不安や恐れに支配されてしまいます。ますます思い悩みの虜になってしまいます。


・「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求

めているものだ。あなたがたの天の神は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(31

-33節)。


・ですから、自分で自分を守ろうとするのではなくて、神さまによって造られた者である私たち人間も、

空の鳥や野の花と同じように、「ひとつの自然」に徹すればいいのだ、というのです。それは生かされた

者として、私たちを生かしてくださる神さまの思い、決定を大切にして、今日を精一杯生きるということ

ではないかと、イエスはおっしゃるのです。


・ですから、イエスは、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日

の苦労は、その日だけで十分である」とおっしゃるのです。


・今日どういきるか。私たちにはいろいろな可能性があります。しかし、神によって決定されている道が

私たち一人一人にはあるから、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と、イエスはおっしゃるのです。

今日という現実の中に「かく生きよ」という神の真実の声があるのだから、その声に従って生きよと。そ

れなのに、今日ではなく、明日だったら、こんなに歳をとっていなくて若かったらとか、こんなに病気で

なくて丈夫だったらとか、もっとお金持ちだったらとか、思い悩んだって、何にもならないわけです。


囲碁や将棋をなさっている方は、お分かりでしょうが、それぞれの局面で必要なことというのは、一つ

ないし二つしかないのです。それは名人でもなかなか分かりません。何時間も考えて間違うこともありま

す。でもたとえ、名人であっても囲碁や将棋をさす人は、今こういう局面でなかったら、ということを

言っていたら、何もできないのです。その局面局面で全力を尽くして考えるわけです。そうやっているう

ちに、そうして経験を積み、考えていくうちに、だんだんと見通しがついてくるのです。


・私たちが生きるということも、今の局面に全力を傾けることです。「神の国と神の義」を求めて、明日

を思い煩うことなく、今日にかけて生きていくのです。富ではなく神への応答として。


・そうすれば、私たち人間にとって衣食住が必要なことは神がご存知なのだから、≪これらのものはみな

加えて与えられる≫とイエスは約束して下さっているのです。


・イエスは「思い悩むな」という禁止を、単独で語っているわけではありません。「神の国を求める」と

いうイエスの中心的な使信に関係づけて語っているのです。そのことは今見て来た今日の聖書箇所から明

らかです。イエスの宣教活動は「神の国は近づいた」という使信によって始まりました。この使信とそれ

に従って生きられたイエスによって、この世界は人間の思惑によって動いているのではなく、神による自

然・歴史・人間の創造と支配が神の愛の賜物であることを明らかにされているのです。ですから、何より

もイエスがそうされたように、私たちもイエスに従って、未来を約束する神への信頼と希望をもって、≪

何よりもまず、神の国と神の義を求め≫て生きていくことができるのです。そのようなイエスを信じる者

としての「わたし」をもって、明日を思い悩むことなく、神の支配する神の国にふさわしい、正義と平和

が重んじられ、全ての人喜びが満ち溢れる社会になるために、今日を全力で生きていこうではないか。そ

れがここでのイエスの私たちへの招きです。


・今日から始まる一週間も、そのような「一日一生」を歩んでいきたいと思います