なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

結婚準備ー2

       結婚の準備をするときに、いつも自分の中にある強い希望の想いは、このカップルが一生結婚生活を続けていって欲しいということです。反面、もし二人の関係が修復できないほどのものになってしまったとすれば、無理して結婚生活を続けることはないので、別れてそれぞれの歩みを大切に生きて欲しいという想いもあります。
       私はカップルを前にしての結婚準備のときには、いつもそのような矛盾する想いを内に秘めながら、目の前の二人と向かい合っています。
       さて、聖書に基づいての2回目のお話は、夫婦の教えが語られているエフェソの信徒の手紙521節以下に基づいてします。
       このエフェソの教えは、明らかに「夫は妻の頭だからです」(23節)というところからも分かりますように、父権制社会であった当時の古代社会の夫婦観の反映です。もう大分前になりますが、「週刊金曜」というリベラルな週刊誌に、教会のキリスト教の結婚式に出たが、そこで読まれた夫婦の教えにびっくりしたという投稿が載っていました。その人は、今でもキリスト教ではあんな差別的な夫婦観に基づいて結婚式が行われているかと、驚いているのです。
       私は、結婚式ではこの箇所を夫婦の教えとしては読んでいません。ただ結婚式の準備の時にはこの聖書の箇所に基づいてカップルのお二人に話します。
       この箇所は、ローマ・ギリシャ(ヘレニズム)世界に広がってできたエフェソという教会に宛てられて書かれた手紙の一節であること。夫婦の教えをはじめ、ここにはローマ社会の家庭訓に合わせようとする著者の意図が見られること。だからこの夫婦の教えをそのまま今日の私たちの倫理にはできないということをお話します。
       その上で、イエスのメッセージからすれば、夫婦は異質な他者である夫々が、神との関係においては独立した人格としてお互いに認め合うこと。二人の関係においては、お互いに対等同等で、自分も喜んで生き、相手も喜んで生きる、そのような生かし合う関係を創造することが大切であること。しかし、儒教的な人間観の影響を受けてきた日本社会で育まれた男女には、多かれ少なかれ男尊女卑の価値観を夫々自分の中に抱えていること。だから、男は「俺に従え」という男性中心主義にならないこと、女は依存的ではなく自立することが、対等同等な夫婦の関係を生きるためには必要であるということなどを話します。
       そして、最後に夫婦は、夫々が夫婦の関係に自分を賭けることによって、お互いに大切にする、聖書が言うところの「愛」の力が与えられるのであって、最初から二人に愛の力があるのではないということを話します。
       この夫婦の祝福されたあり様は、私には全ての異質な他者との一対一関係に当てはまるように思われてなりません。
       ご参考までに。