.・ 「罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちで ある。」(ローマの信徒への手紙6章23節)
・ 昨夜87年の生涯を歩み終えた方の前夜(通夜)式が教会でありました。私が司式して行いましたが、その時 のお話の聖書個所が上記のものです。
・ これは、私が選んだものではなく、召された方のご遺族の方から示されたものです。
・ 私は、上記の聖書の言葉に基づいて、概略以下のようなお話をしました。
・ この言葉の「…しかし、…」に注目して、なぜこれを書いたパウロは、ここで「しかし」と言えたのでしょうか。それ は、人間の生には、死への往路と死からの復路があるからです。
・ お正月に行われる箱根駅伝では、一日目の往路は、日本橋を始点として箱根の芦ノ湖畔が終点です。二日 目の復路は、芦ノ湖畔を始点として日本橋が終点(ゴール)です。これに譬えれば、信仰をもってこの世の 生を 生きる者は復路を生きていることになります。つまり、死へと向う往路の生ではなく、死から終末に向か う復路の生を生きているということです。終末とは、私には、自然と人間の全的解放を意味し、それが聖書の いう救済の完成ではないかと思っています。
・ 生来の人間には、聖書で言う「罪」(的外れ)があって、見えない人間の創造者としての、神との人間の関係に しても、見える、人間と人間との関係にしても、的外れにしか生きられないからです。そのような生来の人間 は、「罪の支払う報酬は死である」と言われているように、死へと向う往路の生をいきているのではなかと思う のです。
・ 「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」と上記の聖書の言葉は 語っています。ここには、イエスによってもたらされた人間の復路の生が言い表されています。復路の生は、 死から始まる永遠のいのちに至る生なのです。
・ ですから、誰でもイエスを信じる者は、自分がこの復路の生を生きていると認識できます。そして、永遠のい のちとは、永遠に意味ある生のことなのです(鈴木正久)。
・ そんな復路の生を生き得る恵みに、私は日々感謝しています。