なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖書の「しかし」について

・ 私は、6日、7日と前夜式と葬儀式を教会で司式しました。前夜式でのお話の概略は、7日のブログに書きました。今日は、葬儀式のお話の概略を書いてみたいと思います。
      聖書の個所はイザヤ書4027節から31節です。この聖書個所も、私が選んだのではなく、遺族の方が故人の愛用していた聖書のこの個所に、線が引かれていたからというので、選んだものです。
      イザヤ書40章31節の言葉は、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わたしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはなし」(口語訳)です。
      なかなか力強い言葉です。故人も非常に積極的な方で、この言葉に心ひかれたことが分かるように思えます。
      この言葉の前に、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる」(40:30)とあります。この言葉が示す人間の状況は、現代の日本社会であるかのようです。毎年3万人以上の人が自ら命を絶っていますし、働いている人も、元気はつらつとは言えません。みんな疲れている感じです。私も、多少疲れています。
      イザヤ書のこの言葉の背景には、古代イスラエル人の置かれている歴史的な状況があると思われます。このイザヤ書の預言が書かれた頃、イスラエルの人々は、バビロニアに国が滅ぼされ、捕囚と言って、主だった人々がバビロニアに強制連行されて、外国生活を強いられていたのです。
      今年は日韓併合100年に当たります。日本の侵略の歴史を如実に現す出来事です。特に戦時下強制連行されて来た在日の方々のことを、私たちは忘れてはなりません。戦後ずっと日本に残らざるを得なかったコリアンの方々に対しても、日本の国も私たち日本人も、謝罪と補償を十分にしているとは言えません。私たちの責任です。
      イスラエルの捕囚の民は、いつエルサレムに帰還できるのか。その時の到来を心から待ちつつ、バビロニアで捕囚の民に課せられた厳しい生活を耐えていたのでしょう。そういう人々を見て、この預言者は、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる」と語ったのではないでしょうか。
      しかし、預言者は語ります。「あなたは知らなかったのか、あなたは聞かなかったのか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。」(40:28,29)
      このイザヤ書にも、昨日のローマの信徒への手紙623節「罪の支払う報酬は死である。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である。」における、「しかし」が響いています。
      「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、・・・・」。この「しかし」にこそ、聖書のメッセージの主旋律があるのではないでしょうか。