なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

貧しい人は幸いか?

以下は、この5月末発行の教会の機関紙に載せた説教要旨です。
 
エスって、どんな人だったのでしょうか。
 
マタイによる福音書53節の言葉とルカによる福音書620節とは、同じように「幸いである」と言われているのですが、マタイでは「心の貧しい人々」ルカでは「貧しい人々」と言われています。
 
「心の貧しい人々」と「貧しい人々」は同じなのでしょうか。違いますよね。
 
「心の貧しい人々」と訳されている「心の」は、より正確には「霊において」ということです。「霊において貧しい人」とは、イエスがその一人でありましたユダヤ人の伝統によれば、食べ物がなくて、お腹を空かせている貧しさではなくて、「心の貧しさ」です。謙虚な人のことです。イエスは、「心のへりくだった人々は、幸いである」と、おっしゃったのでしょうか。
 
マタイによる福音書の言葉は、そのように理解できるのですが、ルカの方は、文字通り貧しくて食べるものがなく、お腹を空かせて飢えている人のことを意味する「貧しい人々は、幸いである」と言われているのです。ただルカによる福音書の「貧しい人」は、全財産を捨ててイエスに従う理想化された弟子たちのことで、イエスが実際に語られたときの「貧しい人」ではありません。
 
エス時代のユダヤの国では、貧しい人」は幸いではありませんでした。ローマ当局からは人頭税と間接税を徴収され、ユダヤ自治機関から神殿税と十分の一税を課されており、なおその上に大土地所有者による経済的投機の被害をもろに受ける状態に立たされていたからです。その上、貧しい人々は律法を守ることはできませんでしたので、ファリサイ派などから不浄の民、つまり地の民とされていたのです。そして不浄の民は、この世の終末が来た時、そこからも閉め出されると信じられていたのです(荒井献)。
 
エスが「あなたがた貧しい人々は幸いである」と言われた時の群集は、かつての日本なら被差別部落の人たち、今の日本では、家もなく路上で生活せざるを得ないホームレスの人たちに近い人々と考えてよいでしょう。そのような人々に向って「神の国はあなたがたのものである」と、イエスは語ったのです。
 
では、貧しい人びとの立場になって考えた時に、「あなたがた貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と語られたから言って、うれしいでしょうか。そんなことをいくら言葉で言われたからといって、お腹が一杯になるわけではありません。
 
田川建三さんは、アフリカのザイールの神学校で教えていた2年間の経験で、「貧しい者をつかまえて、『幸いなるかな、貧しい者』と宣言してみたとて、何の意味があるのか。貧困は苦痛なのだ、幸福であるわけはない。しかし、幸いなのは豊かな者だけなのか。そうであってはならない。この世でもし誰かが祝福されるとすれば、貧困にあえぐ者を除いて誰が祝福されるというのか。この言葉には、そのようなイエスの思いが・・・・こもっている」といっています。
 
とすれば、マタイもルカも、イエスが実際に語られた「あなたがた貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」という言葉を、自分達の状況に合わせて換骨奪胎してしまって、イエスとは違う道に、イエスを信じる人たちの集まりである教会を向かわせていることになります。
 
私は イエスを信じる者たちは、イエスと同じ方向に歩むもうとする人たちではないかと思っています。ところが、イエスを信じる私たちは、マタイやルカのように自分の方にイエスを合わせてよう、合わせようとするのです。この誘惑を自覚し、イエスに従う信仰を大切に生きていきたいと思います。
                    (201052日の説教より)