なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

死の陰に抗って

暫く前の日曜日の夕方、突然前任教会時代の方から電話がありました。近くに来ているので、会えないかということなので、来てもらい2時間半ほど話をしました。彼女は数年に一度くらいの割合で、こちらに来る用事があり時間に余裕があると、私を訪ねてきます。今回彼女がこちらにきた用事は、祖母の今後の世話について従姉妹の一人と相談するためとのことでした。彼女の祖母は94歳になり、今はホームで生活できているが、そろそろ世話する人が必要になっていて、祖母の子どもたちは自分の母を含めてその世話が無理なので、祖母からすると孫たちの誰かがその役割を担わなければならないということになっているそうです。彼女も夫の親の世話を期待されているということでした。
 
そのような話から、彼女は、自分も夫と二人なので、年を重ねていって、健康であれば、自分の両親や祖父母のような立場になると思うが、そうしてまで生きていくことにいささか疑問を感じているようでした。昨年3月に彼女より少し若い世代の女性が、第3子の出産数ケ月後に自ら命を絶ちました。その女性の死にも彼女は、自分の本心としてはその女性に自死を引き止め生き続けて欲しかったと言えるものを今の自分の中には持ち合わせていないと、正直な自分の気持ちを話してくれました。
 
私は彼女との話し合いから、ある思想家が言っていたことを思い起こしました。それは、人間は生まれてきたときに、自分から選んで生まれてきたわけではないが、生まれてきた以上、その与えられた命を生きる責任が生じるのではないかということです。それを「存在の倫理」というような言い方で言っていたと思います。確かにこの社会はそう簡単に与えられた命を生きる自由を一人一人に保証しません。その命を奪い取ってしまう力がいろいろな形で働いていることも事実です。そうでなければここ十数年日本の社会で毎年3万人を越える自殺者がでるはずがありません。
 
自分の能力や健康の問題、家族や学校の問題、不況をはじめさまざまな社会の問題、人間関係の問題など厳しい状況に人間が置かれると、その生きにくさに耐えられなくなってしまうこともあるでしょう。ですから、自死していく人を簡単に非難することはできません。自死と言っても、自ら選んで死ぬ人はいてもわずかで、殆どの人は自死と言いながら、強いられた死といってよいでしょう。
 
自死した人を責めることはできませんが、私たちすべての人に与えられた命を最後まで大切に生きる課題と責任が私たち一人一人にあることも事実です。その課題と責任をどう果たして行くかは、一人一人に問われていることです。私たちは他者の生死についてとやかく言うことは差し控えるべきだと思います。彼女と話した後、そんなことを考えながら、では果たして自分はどうなのかと、考えさせられました。
 
私は今そんなに行動的に生きているわけでもありませんし、そんなに安穏とした生活をしているわけでもありません。かといって苦しみながら生きているかと言えば、個人的には生活に困っているとか、健康を損なっているとか、どうにもならない人間関係を抱えているとか・・・、全くないとは言えませんが、死にたいと思うほどではありません。日々他者やこの世の現実からの問いかけにどう応えていったらよいのかを、祈りつつ自分なりに考え実践しながら無我夢中で生きているというのが、正直な現在の自分の生活です。
 
そういう自分の中には、この命は自分の所有物とは違い、預かっている宝物ではないかというような感覚があります。自分が選んで命を得たのではなく、選らばれて受け身でこの世に生まれたわけですから、この与えられた自分の命を抱えて、最後まで歩み通したいという願いが、私の中には強くあります。できれば、その私の願いがかなえられることを、私は密かに祈りつつ、一日一生を過ごしています。