なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ペンテコステ

    523日の日曜日は、聖霊降臨節ペンテコステ)です。私は、クリスマス、イースターには、日曜学校の子どもたちから、一度でも教会に来て新来者カードに住所を記入している方、そして教会員の中で普段礼拝に出席していない方には、集会案内にひと言いろいろな本からの引用を添えてカードを出すようにしています。ペンテコステも時々、同じようにしていますが、年によってペンテコステは忘れてしまうことがあります。
 
 今年は今の教会で牧師として働くようになって16年目で、来年3月末でこの教会の牧師を退任することにしていますので、忘れかけていたペンテコステ礼拝の案内を、今日(520日)、急遽日曜学校の子どもたちは除いて、いつものようにひと言引用を添えて出しました。その案内の中に引用した言葉を、紹介したいと思います。
 
 以下は、青年にも大人にも案内に添えた聖書の言葉です。訳はイェルク・ツィンク『現代への祈り』改訂新版下からですので、新共同訳聖書とは違っています。
「主は霊である。 主の霊のあるところに、 そこに自由はあるのだ。 今やわれわれはみなおおわれていない顔で 主の栄光を映し出している。 主は私たちを御自分の似姿へとますます変えてくださり、 私たちは主の映像をますます明らかに映し出す。 主は霊なのだから。」                  (IIコリント3章17,18節)
 
以下は、大人の案内に上記の聖書の言葉と共に添えたものです。
 「第70回目の誕生日に際して私が望むことは何かって? 私は、祖国の自由に加えて、憎しみからの自由、恐怖からの自由を望む。なぜなら、恐怖から自由な者のみが他人のために働くことができるからだ。そしてまた、自分の兄弟より自分を優れた者だと考える優越感からの自由を望んでいる、と。」  (ジャズ演奏家デューク・エリントンの言葉、イェルク・ツィンク『現代への祈り』改訂新版下から)
 
 以下は、青年の案内に上記の聖書の言葉と共に添えたものです。
 「大学生クルストフ・プロープスト。彼はヒットラーに対する抵抗運動に参加していたが、1943年、24歳で、絞首刑に処せられたその当日、妹に宛てて次のように書き遺した。
 僕は死がこんなに易しいものだとは知らなかった。 僕は憎しみの気持を全然持たずに死んでいく。 生とは、愛の中で成長することであり、 永遠をめざして準備することにほかならないことを 決して忘れないでください。」(イェルク・ツィンク『現代への祈り』改訂新版下から)   
 
 上記の三つの言葉の中で私の心に特に響いたところは、最初の聖書の言葉では、「主は私たちを御自分の似姿へとますます変えてくださり、 私たちは主の映像をますます明らかに映し出す。 主は霊なのだから。」というところです。私は、主の霊によって、私たちが神を映し出す存在に変えられていくことに、希望を見出します。
 
 二番目のデューク・エリントンの言葉では、「恐怖から自由な者のみが他人のために働くことができる」というところです。三番目の妹に書き遺したナチに処刑された青年の言葉では、「生とは、愛の中で成長することであり、 永遠をめざして準備することにほかならない」というところです。
 
 ペテンテコステを迎えるに当たって、みなさんの上にも、「主の霊」が豊かに注がれますように。