なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(9)

  昨日は船越教会の平和聖日の礼拝を守りました。この8月から船越教会では第一日曜日に行われます役員会の前半をいろいろなテーマによる話し合いの時にすることにしました。昨日は第一回で、「信仰の再活性化」について話し合いました。30分ほどの話し合いでしたが、いろいろな発言があり、今後の船越教会の宣教の課題とそれにどう取り組んでいくかを考えていくための資料の一つになったと思います。私が4月から船越教会の牧師になってから礼拝に来るようになったMさんという方がいます。彼は1967年にブラジルに移民として行き、ブラジルでずっと過ごしていましたが、どのくらい前からでしょうか、多分10年ぐらい前だと思われますが、日本に帰ってきて、今派遣社員として追浜の工場で働いています。船越教会は追浜に近く、追浜近辺は日産の工場もあり、海側にはいくつかの企業の工場がありますので、今でも南米から日本に働きに来た方々がそのような工場に派遣社員として働いています。一時ほど多くはないようですが、この近くにはブラジル人の教会もあるようです。彼は日本に帰ってからブラジル人の教会に行っていたようですが、本年5月第一日曜日から船越教会の礼拝に来ています。ブラジル人の教会はポルトガル語なので、彼は日本語の方がよいということで船越教会に来るようになりました。熱心な方で一度も休まず来ています。ウイークデイには仕事帰りに教会の庭の手入れもしてくださり、船越教会の庭は見違えるようになりました。彼は「信仰の再活性化」をリバイバル運動と受け取ったようです。このテーマを提案した船越教会の信徒の方は、むしろ個々人のキリスト者としてのパイエティー(敬虔)を問題にしたかったのではないかと思います。私たちキリスト者現代社会の日常性に埋没して生活していて、キリスト者としてのアイデンティティーがはっきりしなくなっているのではないかという問題です。Mさんは以前私に船越教会からリバイバルが起こるようにしてもらいたいとおっしゃっていましたから、Mさんは信仰の再活性化を教会の活性化として理解したと思われます。それぞれの思いや考えの微妙なすれ違いは私たちの中には必ずあります。視点や考えの基盤の違いということもあるでしょうから、その違いを理解する努力をしながら、どこで教会としての、つまりみんなの共通項が見出せるか、しばらく模索を続けたいと思っています。次回は「聖書をどう読むか」で私が発題して話し合うことになっています。
 以下「黙想と祈りの夕べ通信」の復刻版といったらよいのでしょうか、掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 9  1999・11・28発行)
 
 先週の土曜日の夜に、満102歳のUさんのお父さんが召されました。西荻窪の葬祭ホ-ルで日曜日の夜前夜式、月曜日に葬儀式があり、私は司式のためにそちらに行きました。そのために、前回の「黙想と祈りの夕べ」はY先生に進行係をしてもらいました。「黙想と祈りの夕べ」は、説教のようなものがありませんので、誰でも進行係をすることができます。その点で、与え手→受け手という一方的な関係がありませんので、突然に出られなくなった場合でも、やりくりがし易い集いだと思います。大まかな形式(式文)は決まっていますが、ファジ-な集いだからです。
 さて、先週のボンフェッファ-の『信じつつ、祈りつつ』の21日の「究極的な言葉と究極以前の言葉」、25日の「死と生」、27日の「弱さと力」についての思想は、私がボンフェッファ-から学んだ大事なものの一つです。多くの人は両者の違いを前提にしてあれかこれかという発想で考え、神信仰においても一方に比重をかける思想(信仰)によって現実生活を営んでいるのではないでしょうか。たとえば自分の弱さにおいては神に頼ろうとするけれども、自分の強さにおいては神のことなど眼中になく自分の力で生きているという人のように。けれども、ボンフェッファ-はそれぞれを一方から切り離してそれ自身を単独で立てることをしません。たとえば27日の「わたしは神について、限界においてではなく、この世の直中において、弱さの中ではなく、力において、したがって死と罪を契機にしてではなく、生において、また人間の善において語りたいのだ」というボンフェッファ-の思想が、そのことをよく表していると思われます。人がほとんど神を問題にしないこの世の生活の直中で、そこでこそ神が問題なのだと、ボンフェッファ-は熱い思いで語りかけているように思います。
 私は、この通信を出すようになって、数年前から続けている妻との朝の食事のときの聖句朗読と主の祈りに、ロ-ズンゲンの日々の聖句とボンフェファ-の言葉を加えて読むようにしています。忙しいときにはしないですませてしまうこともありますが、この小さな朝の時間を、案外大切に感じています。繰り返し記していますように、聖書の言葉や先達の信仰者の遺してくれた言葉に導かれて、その言葉を通して開かれる豊かな信仰の世界に私たちは与ることができるのです。
 10月はじめ「神のもとへ旅立つ日も間近く思います」と娘さんからいただいた葉書の姉妹は、腹部の痛みを薬で抑えながら病床にあります。また、現在某病院の集中治療室で脳死状態と医師から宣告された姉妹に、やはり「神のもとへ旅立つ日」が近づいています。ご家族も人工呼吸で長引かせることを望んではいません。けれども、脳死判定に医師は慎重に臨んでいますし、いつ機械を外すかをどのようにう決定するのか、家族の同意だけではだめで、明確な答えはないようです。医療技術の進歩は、私たち人間に恩恵をもたらした反面、同時に大変困難な問題を私たちに課しているように思われます。技術の進歩が自然史的な発展を踏んでいくのを、なかなか止めることはできません。どこに「臨界点」を設けるか、現代社会の倫理の問題として厳しく問われているように思われます。キリスト者として、この問題をどう考えていくのか、今日的な一つの重要な問いかけだと思います。私自身この領域については、個別の専門領域に入ると、ほとんど判断ができない状態です。二人の姉妹とご家族の上に主の支えを祈りつつ。