なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(17)

 ホロコーストによるユダヤ人虐殺について、確か高橋哲也が「記憶の抹消」ということを言っていたように思います。確かにこの世に生存していた人間が虐殺されることによって、あたかもこの世に存在していなかったかのように権力によって抹消されてしまうということは記憶の抹消です。このことはひとりの人間存在にとって、極めて陰湿で暴力的な行為です。その人が存在したのに、存在しなかったものとして扱われてしまうことになるからです。人権からすれば、この記憶の抹消は重大な人権侵害に当たります。
 私は、日本基督教団による戒規免職処分によって、現在教団と教区の公式の文書の中では名前が抹消されています。私は4月から船越教会の主任担任教師として船越教会から招聘されて就任していますが、本年6月末に開催された神奈川教区総会議案書の議員名簿では、船越教会の教職欄は未定になっています。神奈川教区は私のような問題の当事者は教区として位置づけますので、議員名簿には常置委員会推薦議員として推薦議員の欄に教職でも信徒でもない形で私の名前が入っています。この教区総会の開会礼拝で教職逝去者の追悼の時をもち、出席した遺族の紹介がありました。紅葉坂教会の信徒議員が私の免職問題の議論の中で「北村先生は、免職処分を受けているので、もし召されても逝去者の中にもいれられない。40年以上も教団の教師として働いてきているのに、それは余りにも理不尽なことではないか」と発言しました。会場からは笑いがでました。私は逝去者追悼の時に、漠然と私はこの中に入らないのだなあという思いが脳裏をよぎりましたので、紅葉坂教会信徒の発言を聞いて、ああそのように思っていてくれる人もいるのだなーと感じました。でも笑いがでたときに、この笑いは一体何の笑いかと思いました。
 私は戒規免職決定後に、教団や教区の会議に出ていて、時々自分は透明人間として扱われているのではないかと感じることがあります。ホロコーストと一緒にしたいわけではありませんが、戒規免職処分にもホロコーストと質的に同質の問題、記憶の抹消があるのではないかと感じています。
 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(17)を掲載いたします。
 
父北村雨垂とその作品(17)
 
「雀」
 
小雀の ものしり顔に 食足りて
雀二羽 父を葬る日の庭に
鍵盤は庭で 楽手は雀で 朝で
冬は 野に 淋しくはない 雀達
いなむらに 迷子の雀あり 夕陽
 
(「雀」というテーマの句は以上かも知れません。今までの表題もテーマに関わる句は同じように限られているのかも知れません。テーマがある場合、次のテーマが出てくるまでの句はそのテーマに属するものと思って、今まではまとめてきましたが、どうもそうではないようです。テーマに関係しない句は、独立した句と考えた方がよさそうです。以下テーマのある場合は、テーマを書いて一行開け、句を書きます。そのテーマに関係する句が終わり、独立した句に移る時は2行空けることにします。)
 
 
番犬と 知性が叫ぶ 黙るほかなし
孤りの足音が 近づいて 遠のいて夜明け
風とおくれ毛 風は男の立場にて
この父を 正しいと想え 夜の膳
巴におどる 親のいのちと 子のいのち
 
月のない夜は 死んだ児がゐると想う
泣くな この父の白髪を みせてやる
闘病記 蝿の臓器を描き 絶ゆ
昨日の蝉にあらざれど 今日の蝉
鬼の面だけが 硫石に 生きてゐる
 
科学者に悪霊醒めず 潮は満つ
死んだ児が 落ちてゐる 笑ってゐる萩
想い起す ゆめより淡き いのちの在り家
子の骨を托す こほろぎ繁き 土
 
油 一滴 水に拡がり 実在を強いぬ
嵐の跡 ひらひろと ひと葉
南無や 泪 葉末に ひとつ ひとつ 光かる
晴着の下の この心臓は 昨日のものか
だんまりの綱 いつ終る 綱渡り
 
塵もなき 鏡に缼けた 批判性
創造の圧巻に たばこがあった
土掘れば 土が いのちの色かとも
まっくらな魂 三味線を 覚え
時計鳴る 擬装の母と 子のうえに
 
悲曲 その子守唄から 夢となる
素晴らしい月夜である 洗濯してゐる
剃刀の下に まどろむ 昼がある
花ほどに 蝶ほどによき 春ならず
火を吐くか 秋をうらむか 無果花