なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(66)

          船越通信癸僑供  。横娃隠嫁7月15日    

・7月8日(日)の礼拝後、最近船越教会の礼拝に来られた方と午後1時半ごろまでお話しをしました。彼女は、近所に住んでおられるカトリック教会の信徒で今は教会に行っておられない方の紹介で船越教会の礼拝に来ました。今回お話しをして、宗教に深い関わりのある方であるということが分かりました。しかも、今までの関わりのある宗教への疑問もお持ちで、真のものを求めているように思われました。船越教会での礼拝から彼女が何かを感じてくれたらと願っています。彼女のことを覚えて祈っていきたいと思います。

・9日(月)から10日(火)にかけて、第37(合同後22回)総会期第6回定議員会がありました。この定議員会の「教区総会報告」の中で、神奈川教区総会に問安使としてきた教団副議長の以下のようなコメントがあったようです。「北村慈郎さんは免職中で議員とされないはずの中で推薦議員となっていたが、そうした中で『被選挙権はない』としたのは教区議長の苦慮を感じた」。そして石橋秀雄教団議長は岩崎隆神奈川教区議長に宛てて、「教規第143条を参照されたし」と言ったようです。この教規第143条には「停職または免職の処分中にある者は、教団総会議員若しくは教区総会議員に選ばれ、また本教団若しくは教区の教務に従事することはできない」とあります。一方、神奈川教区は今度の総会でも私の戒規免職撤回を教団総会議案とすることを可決しています。神奈川教区には教区形成基本方針があります。その本文は下記の通りです。
 
 我々は、1941年の日本基督教団の成立、1954年の「教団信仰告白」、1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、1969年の日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同等、今日改めて問い直すべき内容を含む課題を負う教団の現実を踏まえ、理解や方法論の対立を伴うその他の諸問題についても、意見を誠実につき合せ、対話を重ね、聖霊の導きを求めつつ、なお一つの地域的共同体としての教区形成を目指すことを基本方針とする。
 我々は既に、この状況の中で時と地域と課題とを共有している。さまざまな理解の相違や対立は存在する。しかし我々は共に集まり、共に祈り、共に語り合い、共に行動することが許されている。我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。
 我々は、合同教会としての形成、教会会議、今日の宣教、教会と国家、教会と社会との関わり、差別問題、さらに教区運営・教区財政、地区活動、諸教会の宣教の支援等、教区として取り組むべき諸課題を担い、当面合意して推進し得る必要事項を着実に実施できるようにと願うものである。

・この教区形成基本方針によって教区形成をしている神奈川教区は、これまでも問題の当事者を教区総会の推薦議員としてきました。今回の私の場合も同じです。そのような神奈川教区の姿勢を現在の教団執行部は「教規に反して」免職中の私を教区総会議員に神奈川教区の常置委員会が推薦議員とするのは教規違反であると言うのでしょう。さすがに一教師である私を排除切り捨てたようには、現在の教団執行部が一教区を「教憲教規違反」として排除切り捨てることは今のところはできません。しかし、今後教団執行部がもっと強硬姿勢になって、神奈川教区に私を教区総会の推薦議員にするなと迫ってきたとき、神奈川教区はどうするでしょうか。教団の言うことに従って私を切り捨てるか、神奈川教区は教区としての主体性を貫いて私を教区総会の推薦議員として選び続けるのか。この教区と教団の関係の在り方が今後ますますシビアーに問われてくるのではないかと考えられます。神奈川教区では主に連合長老会系の大部分の信徒・教職・教会が現在の教団執行部側の立場で立って、教区は教団執行部の意志決定に従わなければならないので、教団執行部の意志決定に逆らって独自に自己形成する権限は教区にはないと言うでしょう。

・しかし、沖縄教区が伝道所からも信徒の教区総会議員を出すことを教区規則を改定して決めました。教団は教規違反としてそれを認めませんでしたので、今回の沖縄教区総会では伝道所の信徒議員は承認されませんでした。しかし、沖縄教区が独自に伝道所の信徒議員を認めて教区総会を開催するというようになり、教区が主体性を発揮して教区形成をするという道も十分あり得ます。ちょうどアメリカ合衆国の州と連邦政府(国家)との関係のように、場合によっては州の法律が合衆国の法律よりも上ということもあり得るような両者の関係です。今後そのような方向に日本基督教団が成熟していくようにと、私は密かに願っている者の一人です。

・私はこれまでバルトの教会教義学の邦訳を和解論を中心に必要な所を部分的に読んできていますが、全体を通してまだ読んでいません。牧師を隠退したら全体を読んでみたいと思っていましたが、今回邦訳の/1から読み始めました。この邦訳/1は以前にも一度読んでいますが。3日で200頁ほど読みました。たとえば、こんなバルトの言葉があります。

「何が宣べ伝えられるべきかということ、そのことを人は教義学から聞くことを期待することはできない。何が宣べ伝えられるべきかということは、一方において、聖書全体の文脈の中での特定の聖書のテキストと、他方において、これこれの現在の特定の状況の中での教会、これら両者の間の真中で、その都度、見出されなければならない。しかし、教義学は、ただ、その見出すことが問題であるであろう瞬間に当たって、正しく熟考すること、正しく従順な態度をとること、正しい大胆さと正しい慎重さへの指導であることができるだけである」(154頁)。

 このバルトの言葉からは、自己相対化を越えて、自分だけが絶対に正しいとし、自分たちだけが福音を正しく理解しているとする正統主義者は出てこないのではないでしょうか。もし正しさを問題とするなら、十分な論争を経た上でなければ、何が正しいかという教会の判断は出せません。教会の政治的支配によって、正しい聖礼典の執行がこれでなければならないという現在の教団執行部の姿勢は、どう考えてもバルトの言う教会とは思えないのですが。もちろん、バルトの教会論も批判の対象ではありますが、私はバルトにある批判的な自由さが好きです。