なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(55)

     マルコ福音書による説教(55)マルコによる福音書13:1-13、

・最近タワーと言えば、東京スカイツリーが話題になっています。昨日も義理の兄の一周忌があり、その義理の兄の妹が墨田区に住んでいて、近くに東京スカイツリーがあります。彼女からまだ混雑しているので、落ち着いたら、一度いらしてくださいと誘われました。この東京スカイツリーは、現代の世俗化されたエルサレム神殿と言ってよいかも知れません。このタワ-に引き付けられる人々の群れは、エルサレム神殿の巡礼者の群れに重なって見えます。

エルサレム神殿の華麗さに驚嘆の叫びを発している弟子たちの姿が目に浮かびます。 「先生、御覧ください。なんというすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13:1)。原文では石も建物も複数形ですから、神殿全体の建物群を指して、弟子たちは感嘆の声を挙げたのでしょう。

ユダヤ古代史を書いたヨセフスは、エルサレム神殿について、次のように記しています。「さて、神殿正面の外側は、人々の心や目を驚かせることに欠けてはいなかった。全体が相当な重量の金の板でおおわれていたから。太陽が最初に昇ったとき、非常に美しく輝いた。そして、それを見ようとしても、ちょうど太陽を見るときと同じようにまぶしくて目をそむけざるを得なかった。しかしこの神殿は、遠くにいた旅行者には雪におおわれた山のように見えた。なぜなら輝かない部分は非常に白かったから…。その石は、あるものは(約縦4メ-トル、横12メ-トル、厚さ6メ-トル)もあった」と。

・このイエス時代のエルサレム神殿(第3神殿)は、ヘロデ大王が紀元前20-19年に神殿再建を着手し、 8年後にほぼ出来上がりましたが、完成したのは紀元後62-64年と言われています。ラビの言い伝えの中にも、「ヘロデ神殿を見ないでは、美しいものを見たとは言えない」というのがあるそうです。ですから、イエスの弟子たちが、田舎のガリラヤから出てきて、エルサレム神殿の華麗さに驚嘆したのも無理もありません。弟子の目は、眼前の神殿という建物に注がれていました。壮大な建物は権力の象徴であります。

・そういう弟子たちの神殿に対する反応に対して、イエスは、全く別の見方、態度をとられました。マルコによる福音書11章17節を見ますと、イエスは、本来祈りの家であるべき神殿を強盗の巣(商売の家)にしていると、人々に教えています。そして、今日の13章2節でも、先程の弟子たちに対して、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたというのです。この神殿に関するイエスの言葉が、後にイエスが逮捕されて、大祭司の庭で審問を受けたときに、イエスに対する不利な証言として取り上げられています。「数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。『この男が、《わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建てる》というのを、わたしたちは聞きました』」。(マルコ14:58)。

・この13章1節、2節には、神殿をめぐる弟子たちとイエスとの対照的なことばが際立っています。

・現在の華麗な建築物としての神殿を見る弟子たちの目は、地上に注がれています。その現在は、将来の崩壊を内包している時です。その意味で、弟子たちの目は、崩壊を繁栄(華麗さ)と錯覚しているのです。この建物は、神殿という宗教的な建物でありますが、人間の文化の進歩の誇示でもありました。エルサレム神殿はロ-マ風建築でした。

・神殿の崩壊を予言するイエスは、終わりを見つめています。終わりから現在を見ています。

・この問答がつなぎとなって、13章3節以下では、場面が変わり、オリ-ブ山の上で神殿の方を向いて座っていたイエスに、4人の弟子たち(ペテロ、ヤコブヨハネ、アンデレ)がひそかに尋ねたというのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(13:4)と。

・この4人の弟子の質問に答える形で、イエスは話しはじめられたと言って、そのあとに13章の終わりまで、長いイエスの終末についての話がしるされています。注解者の中には、この13章は、マルコ福音書としての、ヨハネによる福音書14-16章のイエスの告別の説教に代わるものだと言う人がいます。

・13節までには、偽のイエスの出現による惑わしに気をつけなさいということと、破局的な状況の中で、弟子たちは迫害に合うが、その弟子たちの苦しみによって、イエスの証人となることが語られています。そのようにして、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)と。この「ねばならない」はイエスの受難予告における「ねばならない」と同じ神の必然をしめすものである。

・弟子たちが証人として引き出されるときに、「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)と。そして、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(12、13節)と。

・イエスの神殿崩壊の予言に対して、弟子たちは、それがいつ起こるのか、それが起こるときには、どんな徴があるのかと尋ねたという。この弟子たちの質問は、イエスからすれば、根本的な視点が欠落したものだったと思われます。それがいつ起こり、どんな徴が伴うのかということではなく、その終わりに対して自分たちはどう生きたらよいのか、それが弟子たちには欠けている視点です。

・イエスに従う弟子たちは、苦難を負わざるを得なくなる。その苦難によって、イエスの福音が宣べ伝えられることが強調されているのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)と。

・ここに記されています、イエスに従う者が直面するさまざまな困難は、政教分離を原則とし、信教の自由が保障されている近代社会では、起こり得ない困難かも知れません。キリスト教信仰そのものを捨てることを強要するこの世の権力に直面することは、民主的な近代社会の中ではほとんどあり得ないからです。ですから、このマルコ福音書13章9節から13節に記されていますキリスト者が受ける困難としての迫害は、権力者によるものも、家族からのものも、また他のすべての人からのものも、一部にはあっても、ほとんどあり得ないでしょう。教育の世界の中で信教の自由を侵すような、日ノ丸・君が代の強制に反対して不起立、伴奏拒否による処分を受ける学校教師の場合は、例外でしょうが。

・しかし、キリスト教信仰は、「最も重要な掟」(12:24-34)のところにも示されていますように、何よりもイエスの父なるただひとりの神を畏れることと、己のごとく隣人を愛することです。マルコ福音書13章に記されています迫害は、この最も重要な掟では第一の掟であるただひとりの神を畏れる信仰に向けられたものです。今日そのことでキリスト者が困難に会うということはほとんどないとしても、第二の掟に従ってキリスト者現代社会の中で生きていく時には、さまざまな困難にぶつかるでしょう。第二の掟、己のごとく隣人を愛せよに関わる平和と人権の確立のための働きを担う者は、今も様々な困難に直面しているに違いありません。野宿者や日雇い労働者の支援を目的に設立されている寿地区センターの働きに関わる者としても、そのことを実感しています。財政の危機や生活保護不正受給を理由に行政は生活保護の受給の枠を狭めようとしています。もしそうなれば、以前北九州市で起きたような餓死者や自死者が多くなってしまうでしょう。生存権すら脅かされる社会にますますなって行くに違いありません。そんな社会は人間として許されません。

・終りから生きるということは、キリスト者にとっては、終りは神の国の完全な到来ですから、その終りである神の支配する神の国にふさわしく今を生きることです。そのことには今もさまざまな困難が伴います。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」のです。救いは、すべての人が、またすべての自然が、その創造者であり、保護者であり、救済者である大いなる命である神を讃え、他者の命と生活を何人も犯さない、互いに分かち合い、支え合って生きる人類共同体の完成だからです。その完成を望み、そのために最後まで困難を耐え忍んで生きる者が救われるのです。

・み心ならば、そのような信仰をもって私たちが今日の状況の中で生きていけますように。神の命の息吹が豊かに注がれますように。