なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(126)復刻版

       黙想と祈りの夕べ通信(126[-21]2002.2.24)復刻版

 昨夜(17日午前1時)R.姉の帰天の知らせが、お連れ合いのK兄からありました。新横浜の病院からです。昨夕今晩が山かも知れないと医者に言われたので、祈って欲しいとK兄から電話があり、私は病院に駆けつけて、集中治療室のベットに横たわるR姉の傍らに立ち、K兄と次女の方と共に祈りました。R姉は、1月8日に自宅の庭で倒れ、病院に救急車で運ばれ、入院しました。心臓大動脈にヒビが入ったために、直ちに人口動脈の置換手術が行われました。8時間ほどの手術だったそうです。手術は成功して、少しは話もできるようになりましたが、1月17日頃から手術したところが化膿して、その後3回の開腹手術をして菌の除去に努めましたが、その間体力が極度に消耗しまして、昨夜息を引き取り、召されました。

 R姉は、静かな方で、余り自分から積極的に発言するということはありませんでした。姉妹の思い出として私が心に残っていることが、二つあります。一つは、R姉よりも10年年上で現在病院に入院しています一人の姉妹が、家庭集会に以前参加して、当時姉妹が住んでいた公団の住宅に帰るためにバス停にいると、必ずR姉がッバスが来るまで一緒にいてくれたということを、大変喜んでおられたということです。あの人は優しい人だと、その姉妹は繰り返しおっしゃっていました。もう一つは、私が以前礼拝前に開いていたキリスト教入門講座に休まず出席されていたR姉の姿が印象的で、忘れられません。自分は系統的に聖書についても、キリスト教についても学んでいないのでと、おっしゃっていました。静かで控え目な方ですが、芯の強さを感じていました。

 私は、礼拝後にN宅に伺い、病院から自宅に帰って来られたR姉の遺体の前で、そこにいらした家族、親族の方々に集まってもらい、ヨハネ福音書14章1節以下を朗読し、祈りました。R姉の顔はきれいにお化粧が施されて、元気だった頃の顔で、静かに眠っているようでした。それから葬儀屋さんを交えて、葬送の日程打ち合わせ、準備を済ませて、教会に帰ってきました。前夜式、葬儀式の式次第を準備し、オルガニスト、印刷屋さんにファックスを入れ、しばらく休みました。それから日曜日の夜の「黙想と祈りの夕べ」に臨みました。いつも出席されている姉妹が風邪でお休みでしたので、連れ合いと二人でした。二人でR姉を偲びました。そして祈りました。

 R姉は、K兄と結婚される前は、一時叔母さんの家にいらしたそうです。お父さんが病死した後、広島の原爆でお母さんと妹さんを亡くしました。そのために、叔母さんの家に引き取られていたそうです。その叔母のF姉が紅葉坂教会のメンバーで、故M姉の紹介で、K兄と結婚されたということです。

 ひとりの人の一生には、なかなか他の人にはわからない歴史(体験の積み重ね)があり、そこには喜びばかりではなく、痛みや苦しみも沢山あることでしょう。そしてそれを記録に書くとしたら、何冊もの本にしなければならないでしょう。私は葬儀の司式をする度に、ひとりの存在の重さをひしひしと感じさせられています。

 
       「与えられた信仰の量り」(『ルターによる日々のみことば』より)

  わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべ   き  限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えれた信仰の量りにしたがっ   て、慎み深く思うべきである。              ローマ12:3

 神は、偉大な聖徒によってはなされないことを、小さな聖徒を用いてなされることが、しばしば、あります。キリストは十二歳の時、母マリヤの目からすがたをかくされ、捜し回らせられました。また、イースターの朝、母や弟子たちの前に現われる前に、マグダラのマリヤに現われました。また、ご自分の母よりも、サマリヤの女や、姦淫の場でつかまった女に、よりやさしく話しかけられました。ペテロは堕落し、キリストを裏切りましたが、十字架上のどろぼうは、十分な信仰を持っておりました。

 このような不思議を通して、キリストは、聖徒たちに与える恵みの量をわたしたちが知ることがないようにしておられるということがわかります。わたしたちは、人物によってそれを判断することができません。主はおしみなくたまものを与えられますが、それは、ご自分のみこころのままにであって、わたしたち人間の考えと違っています。主はご自分についてすら、わたしを信じるものは、わたしのなしたわざよりも大きい働きをするであろうとおっしゃいました。これらすべてのことは、わたしたちがだれも、自分を他の人よりも高いとしたり、ある聖徒を他の聖徒より高く評価するこことがなく、与えられたたまものはそれぞれ違っていても、主の恵みのうちにあってすべての人を等しく尊敬するためです。主は、ステパノによって、ペテロによってはなされない働きをなさいました。またペテロによって、母マリヤによってはなされない働きをなさいました。このようにして、主のみが人物にかかわりなく、みこころのままにすべてをなさるのです。

 神は、偉大な聖徒に小さな信仰を、小さな聖徒に大きな信仰を与えられることがあります。それは、だれでも他の人を、つねに、自分より高く尊敬しているようにさせるためです。

                           1525年の説教から