なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(127)復刻版

        黙想と祈りの夕べ通信(127[-22]2002.3.3)復刻版

 今年になってからずっと風邪気味の状態が続いていましたので、病気の方やお年寄りの見舞いを控えていましたが、先週は大分体調が回復しましたので、気がかりな諸兄姉の所に行ってきました。今年5月が来ますと、満102歳になりますK姉は、昨年10月頃に伺った時よりお元気でした。風貌が面長だったのに丸顔になっていて、金さん銀さんにそっくりになっていました。姉妹は介護ホームにいらっしゃいますが、ホームの職員の方に、私を紹介して「この方は教会の牧師さんです」とおっしゃっておられました。歩行は困難で、車椅子での移動で、耳も遠く筆談ですが、強い生きる意欲が感じられ、敬服させられました。

 S兄は、青葉区特別養護老人ホームにいらして、お嬢さんのCさんのお話では、最近腰の圧迫骨折をしたそうですが、私が伺ったときは、ちょうどおやつの時間で、テーブルに向かって椅子に座っておやつをいただいておりました。歩くところは見ませんでしたが、以前と同じように耳に近付けてお話ししたり、礼拝の讃美歌のテープを聴いてもらったりしました。お元気そうで安心しました。

 そして東戸塚老人保健施設のホームにいらっしゃるK姉も元気でした。約45分間立て続けにお話しをなさいました。私はただうなずきながら、お聞きするだけです。「先生に私の葬儀をしてもらうのだ」と、お訪ねする度におっしゃいます。

 S兄もK姉も95歳を過ぎています。

 病院に見舞いましたO兄とA兄は、上記の3人の諸兄姉と比べますと、20歳以上若くあります。けれども、お二人とも病状は厳しくあります。

 私は、それぞれに異なり、自分からは選ぶことのできない各自の人生の有り様に伴う苦について考えさせられました。95年を越えて、ホームで生きる3人の諸兄姉の中にもその人なりの苦があり、病床にある2人の兄弟にも別の苦があると思われます。それぞれ自分では選べない苦をかかえておられる諸兄姉の上に主の支えを祈りたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、ひとりの姉妹が以下のような発言をしました。

 もみじの会(視覚障がい者へのテープ朗読)の信徒の友、日毎の糧の朗読をしていて、エゼキエル書、ダニエル書を読んだ。その中に「外国人の滞在している人にも嗣業を与えなさい」と言われていたり、かつて日本の国の朝鮮支配に行われた創氏改名のようなことも書かれていた。ダニエルと4人のユダ族の者たちのが名前を変えられてしまうところがある。解説では、相手の国の神の名を使った言葉に変えられたとあった。人間って何千年の間同じことを繰り返しているように思えた。かつて名古屋にいたとき、紋のお仕事をしていた方が、聖書からも教会からも自分の商売のヒントを与えられると、よくおっしゃっていた。その時は、そんなに答えがあるかしらと疑問だったが、自分も最近になって聖書の中には、人生の答えが書かれているように思えるようになった。現在の世界の争いなども、聖書の中に立ち戻っていったら、全部解決するのではないか、と思われる。名古屋の人がよく言っていたことと、今回の日毎の糧の聖書朗読から、聖書を読み直したいと思った。

 先日数ヶ月分の「黙想と祈りの夕べ通信」を諸兄姉に送りました。一気に読みましたと葉書に書いてくれた姉妹、ぜひ長く続けてくださいと、切手を同封して手紙をくださった姉妹などもいらっしゃいます。この通信が、それぞれの信仰生活に何がしかのお役に立てばと願う次第です。

           
            「隠された宝」(『ルターの日々のみことば』から)

 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を 知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
                          マタイ11:25

 すべての信仰深いキリスト者に心から、すすめたいことは、どうか聖書の中に書かれている単純な物語につまずかないでください、疑わないでください、ということです。どんなにそれらの物語が貧弱にみえても、それは、神の大能、力、知恵から出たことば、歴史、決定なのです。キリストがおっしゃっているように(マタイ11:25)、この書はあらゆる賢い知恵のある人々を愚かにし、単純な人々によってのみ理解される書物であるからです。それゆえ、あなたの考えと思いを捨て、けっして尽きることも、掘り尽くすこともない無尽蔵の宝の鉱山に出会ったように、この書物を最上、最良の宝として尊敬すべきです。その時、あなたは聖書の中に神が示しておられる神の知恵を見いだすでしょう。それはあまりにも単純であって、賢い人々の誇りをくだき、無に帰するものです。この書の中にキリストがうぶ着を着て、うまぶねに横たわり、み使いが羊飼いらをそこに導いたと書かれております。このうぶ着はみすぼらしく貧弱です。しかしその中に包まれている宝はすばらしいです。それはキリストだからです。

                                      卓上語録