なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(66)

 今日も「父北村雨垂とその作品(66)」を掲載します。下記の「試作」の年代からして、この作品をつくったのは、父が1970年に脳梗塞で倒れて半身不随の生活になってから3年目に当ります。幸い右手が動き、思考も動いたようで、ベットの生活でしたが、父にとってはこの身体が不自由になってからの最晩年15年間が、人生のうちでも最もよい時期だったかも知れません。前に書いたかも知れませんが、健康だったときの父は、身体が動かなくなってみんなに迷惑をかけてまで生きたいとは思わない。その時には絶食して自死する、と言っていました。命とは不思議なもので、病に倒れたら、それに逆らって身体が生きようと生命力に溢れるのかも知れません。父のこの体験から、私は仮定の上で偉そうなことは言わない方がいいという教訓をもらいました。

             父北村雨垂とその作品(66)

     秋 三十句

 何となく 笑ひ損ねて 秋をみる

 黒染めの汝を 秋と應(こた)えたり

 黙すれば 尚 怖ろしく 秋 迫り

 闖入者 そんな気持に 秋が見え

 秋や 踏(ふ)む 落葉の中に 青の在り

 欲深き 人の微笑を 秋がみる

 気狂(きちがい)の こころに近く 秋 澄(す)める

 黒い土 秋の下から 生れたか

 街路樹を さいなむ 雨の秋ふりし
 
 人絹の白さに 秋の灯が 点じ

 児は右を 秋は左の道を往く

 辛辣な蜘蛛の糸より 秋の陽光(ヒカリ)

 慫慂と服す 大地に 秋の猊

 至極 平凡に 時計が 秋を鳴り

 秋の心臓の さてさて 雁来(ガンライ)紅(コウ)

 都落ち さうした雲に 夜の秋

 音を食う 秋のたそがれの 個性

 水底にいて 水を見ぬ 秋の石

 来年を 地下一寸に 秋が置く

 讀みかけた一冊 秋の枕とも
 
 秋のおどけた 表情に 蔓珠沙(まんじゅ)華(さげ)

 惨劇を 画描けと云うか 秋の昼

 もの終る 白いけむりで 秋 暮れる

 草も樹も 秋へ 好意の色彩(いろ)ならじ

 さかづきに 秋をうつせる 灯が ひとつ

 秋を 芽は 二寸伸びたり あわれなる

 老人は 悟れる秋と みえにけり

 家計簿(かけいぼ)に 赤字は 秋のたわむれか

 死ねもせぬ 秋を 泣けとて 朝が来る

 吾(われ) 憎むこころ 無けれど 去れや 秋
 

       市場の哲学者  川研284、1973年(昭和48年)8月


  ~歌仙風な川柳としての試作~


 正札が揺(ゆ)れる 市場の哲学者

    池が静かに 歩るく わくらば

 魚 跳ねて 陽も釣殿に 鐘の音や
 
    アリアドネーの 寝息 まぶたに

 ほう髪の男は 月を 木葉(このは)木(づ)兔(く)

    峯にいのちの 疾(はし)る 遠吠(とおぼ)え
 
 国境を無門に 風のそよと 吹く
 
    人の気配を みてる 白鳥

 亡命の佳人(ひと) いま 還る 夫(つま)の 骨壷(つぼ)

    毬藻に咲いた 夢のおさな児

 熊の仔を圍む 神話のおころりよ
  
   昨日(きのう)が今日(きょう)に分裂(なら)の(ぶ) アメーバ

 雨は 野菊に 浅間山荘 鳴動(やまなり)す

    こころも 千々(ちじ)に 重量の月

 広嶋や 悪夢の汚点(しみ)を 星條旗(トルーマン)

    誰にも見せぬ 生地(きじ)を ネガチブ

 泰平や 蜥蜴(とかげ)に またも 尾が生えて

    丸い四角に 狂う 若獅子

 アイオーンと 鳴く 牛の瞳に 天の海