なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(43)

         船越通信癸苅魁  。横娃隠嫁2月5日    

・引き続き、1月8日のテーマ話し合いに対するSさんの応答を、ご本人の了解を得ましたので掲載いたします(今回は⊆殺について)。

 ⊆殺について
                 
 我が国では、毎年三万人以上の人が自殺しています。私は父親と妻とが自殺をして他人事とは思ってはいないのです。五十四歳と四十九歳で亡くなった両人には当然ながらもキリスト教には関係なく、無論聖書は読んではいませんでしたからキリスト教の精神には関係ありませんが聖書を読んだ私には自殺の理由が少しは理解できるのです。

 ルカの福音書に『放蕩息子の譬え』というのがありますが、これを読みましてマルチン・ブーバーが書いた『我と汝』を思い出していたのです。『放蕩息子の譬え』では、財産があるときの父親を自分の道具としてみていまして「われとそれ」でした。そして、ふだんの人間関係は、ほんとうの人格関係がなされていなかったのです。ブーバーは、現実の人間が、堕落しているから、落こちてしまっていると見ています。
 
 人間というのは、たいていは自己本位で、深く他人のことなんど考えたりはしないのです。エゴイストであり、自己主義者なのです。ブーバーのいう「われとそれ」という関係でしかない現実の人間関係も、そういう自己本位の人たちなのです。放蕩息子も父親と一緒にいるときは、自己本位であったために、最も身近にいる人とさえ人格関係を結ぶことができなかったのでしょう。
 
 このように、人間同士が離れてしまっている人間の現状のエゴイズムを、聖書では罪という言葉で現しています。深いエゴイスムにおちいっているという自覚、これを罪の自覚といいますが、そこでどのようにして罪がゆるされ、出会いを回復するかという問題です。自分の力だけで回復できるか、あるいは神の力によらなければ回復できないかなのです。人間はなかなか自分の力だけでは解決するのはできないのです。人間はなかなか人を愛することはできないのです。憎んだり、争ったりする心が人間の魂の深いところにあるのです。キェルケゴールは、この問題を自力では解決できないとして、「イエスが教えているような高い道徳、これを行わなければならない。しかし、いざ人間が行動しようとするとき、ある人はその程度を少し下げる」といいますが、そして「あんな高い道徳は、とても守れないから、もっと下げて、それを実行し、自己満足している人がいる」というのです。こういうことはルカの福音書18章の12節にあるパリサイ人の自己満足におちいる人間の典型的な姿なのです。しかし、自分で程度を下げて神の命令を行ってはいけないとキェルケゴールは言っているのです。イエスが山の上で教えたことを自分がやろうとしてもとうていできるものでもなく、神の律法としての愛はなかなかできないのです。そこで、やれないとすると、自暴自棄になる人がいます。やらねばならないと知りながらもデカダンスの生活に溺れたりするのでしょう。さらに、神の命令は、隣人を愛せよというのですから、このままやらなくてはならないのにどんなに努力してもできないのです。これは、自分の至らぬせいだと、自分ばかりを責め、自分にそれをになおうとして重苦しさにたえられないで、自殺してしまうのではないでしょうか。

 この場合、もう道は残されていないのでしょうか。キェルケゴールは、絶対的な敬礼を人間は守りきれるものでもなく、自力だけではできません。その自分の罪をじゅうぶんに認め、それをになって自殺するのではなく、神様の前に罪のままの自分を投げ出してしまう道が残っているというのです。キェルケゴールは、人間は自分の力ではエゴイズムを克服できないと見ているのです。
人間は自分でエゴイズムを処理できません。このエゴイズムという邪魔物によって神との間を遮られているのです。そのエゴイズム、罪をキリストが取り除いて下さるのです。それで、神と人間との交わりができるのです。

 神と人との間の邪魔物が取り除かれ、神と人が出会い、このことが人間の生活にとって基本的に大切なのでしょう。

 私は十二年前に聖書を読みました。身内の二人の自殺者に、どうしてもっと早く聖書のことをおしえられなかったのか、悔やんでいる次第です。

・Sさん応答ありがとうございました。

・1月29日の船越教会の礼拝に沖縄のO・T牧師とお連れ合いのEさんが出席されました。礼拝後先生から短くお話を伺い、昼食を共にして、午後4時から駒込である集いに行かれる先生ご夫妻をお送りしました。

・さて、私が日本基督教団を相手に戒規免職処分を不当として訴えた裁判がいよいよ始まることが決まりました。2月1日に弁護士から裁判所の書類審査が通ったという連絡を受けたからです。まだ第一回の期日(公判)の日程は決まっていませんが、それも近いうちに決まるでしょう。この裁判に臨む私の心構えについて一言でいえば、組織集団内における人権侵害を問うことにあります。長い取り組みになると思いますので、これからもご支援よろしくお願い致します。

・1月31日(火)のシャワーの会(路上生活者のパトロ-ル)には、T・SさんとKさんと私に加えて、Mさんもはじめて参加しました。今日の週報の報告にありますように、公園や路上で出会えた方は7名でした。今年は特に寒さが厳しくありますが、この冬の間ホームレスの方の命と生活が守られますように。

・1月29日の礼拝説教はマルコ福音書8章27-30節のペテロの信仰告白から取り次ぎました。「あなたはメシアです」というペテロの告白は、己は何者なのかを問うものであるということをお話しました(この日の説教は、当日一部原稿を飛ばした部分も入れて、私のブログ「なんちゃって牧師の日記」2月4日に掲載してあります)。