なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(1)

 今日は以前紅葉坂教会時代に教会の機関誌に書いた「牧師室から」という私のコラムを掲載させてもらいます。2002年8月から11月の4回分です。

(1)(2002年8月)

 六月の下旬に連れ合いと湯河原温泉の宿に一泊し、その夜宿の人が車で蛍のいるところに連れて行ってくれました。雨上がりなので、もしかしたら蛍は見られないかもしれないがということでしたが、行ってみると、比較的沢山の蛍の飛び交う光を楽しむことができました。一匹の蛍は、光ながら自動車道路に出てきて、私が捕まえて川の方に戻しました。川の流れの音が聞こえ、両岸の木の繁みの暗闇の中をあちこちに光る蛍の飛行する線を追っていると、幻想的な世界に吸い込まれていく自分を感じました。最近私が持つことの出来た非日常的な時間と言えば、この時くらいでしょうか。
 七月は大変緊張した一月でした。三人の兄姉の帰天に接し、葬儀が三つありました。N兄、M兄、A姉の三人です。N兄は入院していて、病状も思わしくないことが分かっていました。けれども、これほど急な死が来るとは予想外でした。他の二人は文字通り突然の死でした。葬儀を司る牧師はそこでも言葉を発しなければなりません。その都度どんな言葉を語るかが問われます。私はできるだけ神の慰めのメッセージと故人の個性を大切にしつつ、葬儀の言葉を紡ぐように心がけています。愛する者の急な死は、肉親の者にも周りの者にも突然起こった地震のようです。
 今これを書いているのは八月八日です。蛍の光に非日常の世界を体験してから、まだ一ヵ月半しか経っていません。ずっと昔の出来事のようです。


(2)(2002年9月)


 神の国の社会がもし本当にあるとしたら、この世の現実社会とどこが根本的に違うのでしょうか。
 この夏に教区の社会福祉小委員会主催で開かれました「障がい者と教会の集い」に出席して、その集いで発題された心苦しむ方々の発言をお聞きしながら、私は改めてそのことを考えさせられました。以前寿地区センターの講演会で北海道の浦河べてるの家の実践について、その中にある伝道所で牧師をしていますHさんから伺ったことがあります。そのことを思い出しました。一言で言えば、誰を基準にその社会が形成されているかです。浦川べてるの家では心苦しむ人がありのままで生活できる場所がめざされています。ですから、そのべてるの家の社会では誰が基準とされているかと言えば、最も重い苦しみを負った人になると思われます。そのためには、人間の強さが返って障害になります。それぞれの弱さを出し合い、分かち合い、支え合うことによって共に生きる共同体でなければ、最も重い苦しみを負う人を排除しないで共に生きることは出来ません。そういう社会では、現在の日本の学校で教育された人間は、生まれ変わらなければその社会の一員になることはできないでしょう。
 最も弱い人、最も苦しんでいる人、最も小さい人が中心に形成される社会が神の国の社会であるとしたら、現在の私たちの教会はどうでしょうか。現代日本社会では存在しても、神の国の社会では存在しないとうことになったら悲しいことです。

(3)(2002年10月)

 一九九八年十二月一日から施行されましたNPO法(特定非営利活動促進法)によって、民間非営利組織(団体)の活動が活発化しています。たとえば私が関わっております教区の寿地区活動委員会でも、NPO法人の問題が取り上げられることがあります。中には野宿者のために住居を提供して生活保護を受けさせ、そこから利を得る悪徳法人の活動も行われているとのことです。NPOの活動は収益事業ですから、儲かってもかまいませんが、その儲かった利益を関係者で配分してはいけないことになっています。儲けよりも社会的使命を優先して活動する組織がNPOです。このNPO活動が進展してきている中で、NPOと課題が競合する今までの社会的な運動体の存在と課題が問われてきているように思われます。この種のこれまでの社会的な運動体は、どちらかと言いますと、社会的弱者の側に立って行政や市民に訴え、問題解決は市民の意識変革と行政の働きに期待するというスタンスで活動しています。NPOは事業体として行政や市民を巻き込んで、自分たちが問題解決の主体として活動します。現在の私たちの社会の現実はどちらの運動体も必要としていると思われますが、今後それぞれの使命と役割を明確化しつつ、協力体制をどのようにつくり出すことができるかが問われているように思います。
 それにしても、私たちの教会でも、ミッションとしての社会的使命をNPOの設立を含めて考える時が来ているのかもしれません

(4)(2002年11月)

 政党離れが進んでいる現在の日本の状況が示しているものは、既成の政党が保守も革新も既に死に体であるという現実です。死に体であるということは、既成の政党には生命がないということです。組織集団というものは、政治集団であろうが宗教集団であろうが、一度作られますと、組織集団の自己目的として自己保存を図ります。偽りに偽りを重さねながら。その都度裏切られていく私たちは、ばかばかしくなってそのような組織集団に背を向けます。それでも一つの組織集団が存続するのは、利害によって人を引き止めるとか、罰則の強化や脅し(この集団を離れたら呪われるぞというような)によって一度入った人間を出させないという、その集団の生命力とは違う力によってです。
 教会も宗教的な組織集団としてこの世に現前する限り、この世のすべての組織集団がもっているこの危険性から自由ではありません。以前からその危険性を教会に感じてきた私には、今回二十五年ぶりに浦島太郎の心境で出ました教団総会は、日本基督教団という教会の会議が国会以上に一方的な強行採決の連続であり、予想はしていたとは言え、組織集団としての日本基督教団から教会の生命が失われていることを如実に示してくれました。ただ救いとしては、現場の教会や信徒・牧師の中には、教会の生命を大切に活動している諸兄姉も多いということです。井の中の蛙になり易い私には、そのことが今回の教団総会出席で得た大切な収穫でした。