なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(115)

 7月9日~10日に行われた教団常議員会で、今秋の教団総会に二つの議案が提案されることが決まったようです。一つは、「日本伝道の推進と教団の教師養成の重要性をふまえ、教団と東京神学大学との関係を回復する件」が議長提案で。もう一つは、「『信仰告白』と教憲・教規における洗礼と聖餐の〈一体性と秩序〉を確認する件」が岡本恒議員提案で(この議案は一昨年の第37回(合同後22回)教団総会で審議未了廃案となったものと同じ?)。

 教団は何故沖縄教区との関係の回復を優先しないで、かつて東神大の機動隊導入反対決議を教団総会でしていることを捨象して、東京神学大学との関係の回復を求めるのでしょうか。そこで考えられている「日本伝道の推進」とは何なのでしょうか。東神大は機動隊導入の否を認めて再出発しない限り、いやしくも神学の学びの場としての存在理由を持ち得ないことを忘れてはなりません。現在の教団執行部は、教団という教会の自らの歴史と社会への責任を棚上げして、ますます自己正当化という護教に走り、退廃への道を加速させているように思われます。


 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(115)」を掲載します。以下の父の日記の中には私に対する厳しい批判も書かれています。


               父北村雨垂とその作品(115)

  
    1964年(昭和39年)日記より(その7)

   (このところから、日付がありません。)

 オリンピックの競技のうち、柔道は、無差別級の神永が例の世界チャンピオンのヘーシングに勝てるかどうかで、やきもきしてゐる。もっともその先端はもちろん講道館関係の者であり柔道家であって、他は大和魂といふ。けったいなものを日本人だけが持つ特徴だと信じてゐる軽率な者達がこれに次いでゐるだけではなかろうか。そうした人達には甚だお気の毒ではあるが、私等は余り気にしていない。もちろん勝つに越したことはないが、どうしても勝たなければ国辱の様に考えてゐるのは、どうかと思う。東洋の魔女と言はれて各国から、怖れられてゐる、女子バレー選手等は日本チームであるが、これ等は全く輸入品ゲームであって、日本等は最も後進組であらう。問題は鍛錬と天分がものを言ふのであって、本家、分家等は絵に描いた、ぼたもちに過ぎないものである。要は人事をつくすことが、運動競技の要請ではないか。水泳その他で日本が振るわなかったからと言って、泣くこともわらうこともない。それら不振の運動に属する選手の中に実に多数の人事を尽くした人達が居たことに私はむしろ勝った誇りよりも嬉しい気がしてならない。第一清潔感がある。柔道選手よ、どうか小さな島国根性を捨ててひとすじに人事をつくせ。そうして私達にさわやかな秋風のような清潔感をいっぱいに浸らせていただきたい。勝敗には呉れぐれもこだわらぬがよからう。東洋の魔女達よ、あなた方も全力をつくすことを御忘れなく。

夜に沈む屋根々々 悲しみも嬉びも

点々と終車に占める盛装のおんな

理知無知こう知なめくじ蛇蛙


 十七日土曜日に慈郎から電話があり。例によって、小使が欲しいといふ。毎度のことで、別に腹もたたないが、宗教家を目指す人間が、老体の酒代をかすめることはどうかと思うが、顔をみると矢張り幾何かを出す気になってしまう。親というものは何としても子供に弱い。食事をして歸す。宗教家はもっと、物質面で苦労しなければならぬ。同情が涌いて来ない。体験なくして眞の同情はあり得ない。直接肌に感ずるところに同情の念が起るもので、体験は正に同情の母である。彼にニーチェのツラストラでも味讀するように忠告しよう。彼が持ってきた聖書を讀みはじめたが、旧約の創世記はまことに面白い。子供の時に讀んだ古事記と相通ずるものがあってなんともなつかしい。原始時代の素朴さが紙面いっぱいでほほえましい。再びこうした事が信じられる時代が来たら、さぞ幸福なことであらうと考へた。

 (この父の日記を見て、私が小遣いを父にせびっていたことを知りました。全くわすれてしまっていたのですが。父に聖書を贈ったことは記憶にあります。父は私が牧師になった時、お前は布教をしないのかと問うたことがあります。父のイメージでは宗教家とは親鸞日蓮のような人だったのではないでしょうか。)