なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(36)

 昨日一昨日と、、神戸で「沖縄から基地撤去を求め合同のとらえなおしを進める連絡会」の第4回全国

総会・協議会がありました。私も出席しました。30数名が集まり、総会と協議会を持ちました。協議会

では「沖縄」「基地」「原発」「教団」について、そこに通底している問題を踏まえての協議の時を持ち

ました。その話し合いの中での発言に耳を傾けながら、私は、これらの問題にとりくむ姿勢についての齟

齬を考えていました。ですから、私自身が積極的に発言して協議に加わるということができなかったこと

を反省しています。その齟齬とは、状況の把握と運動形成に力点が置かれている発言と、問題にかかわる

主体としての自分の在り様に力点が置かれている発言とのすれ違いにあったのではないかと思われます。

この集会を準備した事務局側としては、運動にかかわっている己自身の在り様を問う方向での議論を期待

していたように思われますが、全体としてはそれぞれの取り組みの報告と現状分析の発言が多かったよう

に思います。そのような話し合いに加わりながら、私は、自分自身の罪性の深さと危機意識の弱さについ

て思いめぐらしていました。

 今日は、「牧師室から(36)」を掲載します。以下の文章も2000年に教会の機関誌に書いたもので

す。 


                牧師室から(36)

 4月に入って、教会も新しい年度の歩みを始めています。Y伝道師が2月末をもって辞任してから、教職

は私一人になりました。教会では、月の第2日曜日の礼拝後には特別な教会行事がないかぎり、エージグ

ループの集いがあります。先日もその集いがあり、私は久しぶりに青年会に出席しました。Yさんがいた

時にはYさんに任せていましたので、本当に久しぶりでした。青年4人と自己申告の青年1人と私とで、6人

が集まりました。牧師室でこれからのことを相談し、外で一緒に食事をしました。

 相談では、エージグループの時には集まること、他に月1回ウイークデイの夜に持ち寄りの食事をしな

がら来れる人が集まる日を持つこと。年数回それぞれの近況報告のようなものを集めてコピーして配るこ

と、などをしてみようということになりました。

 制度としての教会は、教会の後継者としての青年や子どもたちに期待を寄せます。みなさんのそういう

想いを当教会の中でも感じます。けれども、もしそういう期待感が一方的なものであったとしたら、青年

には迷惑に違いありません。私は、私たちの教会に青年の居場所があることが不可欠だと思います。青年

と付き合い、話を聞く大人も必要です。そういう基本的な関係があり、その上で、青年たちと共有し得る

信仰の内実が私たちに求められていると思います。

 どこまでできるかわかりませんが、青年の一人一人の魂を大切にできる教会でありたいと願っていま

す。
                                    2000年4月


 聖餐式が今年から一年間5回から9回に増えました。回数の増加とともに聖餐の豊かさの実質化が今後の

課題になります。この実質化の課題で私が最も大きなこととして考えていますのは、聖餐を私たちだけの

閉じられた食卓ではなく、開かれた食卓として行うということです。この「開かれた」とは、未受洗者に

開かれているというだけでなく、社会に開かれたということでもあります。聖餐の社会的コンテキスト

(文脈)と言ってよいでしょう。

 例えば、聖餐には私たちが一つの食卓を囲み一つのパンを共に食し、一つの杯からぶどう酒(ぶどう

汁)を共に飲むという「共食・共飲」という面があります。しかもその一つのパン、一つの杯はキリスト

の肉と血を象徴し、一つのキリストの体です。キリストの体が裂かれた(十字架)のは、教会に集められ

た私たちのためだけではなく、すべての人のためです。私たちすべての人の中にある分裂とその癒しのた

めと言った方が正しいでしょう。そして、すべての人の中には日雇い労働者や野宿者もいます。とすれ

ば、「聖餐で裂かれたパン」と「寿での炊き出し」がどこかでつながっていると考えられるのではないで

しょうか。聖餐のパンを共に食べることによって、共にパンを食べられない引き裂かれた現実が創造的に

乗り越えられてゆくことを信じ、共に生きる一歩を踏み出してゆく、「聖餐体験を教会共同体の信仰/礼

拝生活と社会生活の接点としてとらえることにある」(山本有紀)と思うのです。

                                    2000年5月

 
 今月号の記事の中に、当教会が会場になって行われた「日の丸・君が代」強制反対集会の報告がありま

す。そこにも記されていますが、私はこの集会に出席して、「硬直した身体」(加納実紀代)ということ

を教えられ、そのことについて考えさせられました。

 権力にとって都合の良い人間は、上からの命令に従順にしたがう条件反射的な硬直した身体を持った民

衆の存在であるということが言えるでしょう。現在の「不安の気流」にある私たちを、そのような硬直し

た身体の人間に、新たに国家主義をすり込むことによって造り上げようとするところに、現在の問題があ

るわけです。この権力の攻勢に抵抗しうるほとんど唯一の道は、私たちが自分で考え、自分の言葉を語

り、物事に自分で判断し行動できる、自立した人間になるという、全く平凡で当たり前の道であるといお

うことを、改めて考えさせられました。

 けれども、自分で考えるということは、案外困難で、忍耐のいることなのかも知れません。特にお年寄

りの方々に接していて、そのことを思わされることがあります。考えることが心配や不安につながるとい

うことも起こり得るからです。先日高齢者ホームでの聖書を学ぶ会の懇談の後で、数名のお年寄りの女性

の方が、日々の有り余る時間に政治のことや死のことなど、いろいろ考えることが多く、先生にお聞きし

たいことが沢山ありますとおっしゃっていました。その方々の身体は、80歳を過ぎても、大変柔らかく感

じられたのが印象的でした。
                                      2000年7月