なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(151)

 今は午後1時40分ですが、この時間には私の裁判の準備手続きが東京地裁で行われています。この準備

手続きの後、12月3日には第2回の口頭弁論が予定されています。

 さて今日は、「黙想と祈りの夕べ通信復刻版}(151)を掲載します。
       

       黙想と祈りの夕べ通信復刻版(151[-46]2002.8.18発行)

 
 8月9日(金)から10日(土)にかけて、日曜学校の夏期キャンプが教会を会場にして行われました。今

年も昨年に引き続き、テーマは「バラバラのいっしょ」でした。今年はマタイによる福音書20章1-16節

の「ぶどう園の労働者の譬え」を、開会礼拝で取り上げ、さらに分級でイメージをふくらませ、その後子

どもたちとスタッフの三つのグループに別れ、このイエスの譬えを劇にして、それを発表しました。外に

出かけての例年の夏期キャンプとは違い、今年は、聖書の学びや分級と劇づくりでの子どもたちの積極的

な参加により、密度の濃い夏期キャンプになりました。その中で、「ぶどう園の労働者の譬え」で最後の

夕方5時ごろ雇われ、一時間しか働かなくて一デナリオンもらった労働者について、分級などを担当した

スタッフの皆さんの見方に共通するものを感じました。それは、この労働者は一時間しか働かなったけれ

ど、一生懸命働いたから、一デナリオンもらえたという解釈です。そういう解釈も成り立つでしょうが、

私は開会礼拝で、この5時ごろ雇われたと労働者について、障がいをもった人ではなかったかとか、なる

たけ働きたくない怠惰な人だったかも知れないという見方を紹介しておきました。この譬えには、雇い主

である主人の振る舞いによって示されてる神の無償の愛が語られていると思われます。その神の無償の愛

は、人間の側の存在や行為によらない一方的な恵みと考えられます。もしそうだとすると、夕方5時頃に

雇われた労働者に対して、主人は彼が一時間でも一生懸命働いたから一デナリオンの賃金を払ったという

ことだとすると、無償性や一方性が弱くなってしまうのではないかと、私には思えるのです。ちょっとそ

のことが気になりました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。去る火曜日に野宿者のパトロールに参加し

た。その前に寿青年ゼミに参加し、ホームレスの方が多いなと感じていたが、実際にパトロ-ルに参加し

て、120人くらいの人に声を掛けた。普段遊びに行っている所にホームレスの人がいることを知った。普

段は目に入らなかった。桜木町トロールだけで120人だから、本当に多いと思う。自分に何ができるの

かと思うが、声を掛けたりして、これからも参加していきたい。

 また別の方から日曜学校の夏期キャンプについての感想がありました。先ほど牧師は一面的な感想を語

ったが、実際は大変豊かな集いだった。子どもたちの発想を大切にして、三つのグループに分かれて譬え

の劇を作った。あるグループは子どもたちが女の子だけだったので、労働者を女がして劇を作った。親が

ガミガミ言うので家を出てきた14歳の女の子や、夫の仕事ななくなった40歳の女の人が働かせてください

という場面もあった。スタッフの準備、子どもたちの発想、報告集にしたいくらい、いろいろな豊かな経

験ができたことを感謝したい。

 またもう一人の方の発言がありました。四国の実家に86歳の母が一人で住んでいる。その母は自分の兄

と弟と母親を戦争で亡くした。兄はフィリピンで軍医として戦死した。その兄の遺品を呉に母が取りに行

く途中で、乗っていた船が沈没して母も死んだ。弟も船で亡くなった。残った父親と女の子で戦後生活し

た。戦争の悲惨を経験し、戦争を憎んでいるその母だが、天皇のことになると違う。先日皇太子のところ

に赤ちゃんができてよかったねーと、そのことを母は私と分かち合おうと話しかけてきた。母の資質なの

か、靖国神社参拝のときにいつも私ともめる。私の家は父がクリスチャンで母は違う。キリスト教(十字

架)と神道が並存している家庭だった。70歳後半から80歳代の人たちとは戦争責任のことではズレがあ

る。戦争責任を国がすることができない理由が、その辺にあるのかも知れない。


                
         「強い者と弱い者」(『ルターの日々のみことば』より)

  
  信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。  
                         
                                   ローマ14:1


 使徒パウロは、なによりもまず信仰の弱い者が、信仰の強い者によって助けられ育まれるように望んで

います。それから信仰の弱い者が、無分別に他の人をさばかないように望んでいます。そうして彼らが、

平和と一致をまもるようにすすめております。弱い者の信仰は、彼らを祝福のうちにもたらしませんか

ら、彼らが強く成長するようにわたしたちは世話をしてやらなければなりません。弱い人々を軽蔑して自

分の救いだけを考える人々のように、わたしたちは彼らを弱さの中に放っておいてはなりません。

 また神が自由のままにしておいて禁じておられないことは、だれに対しても自由のままにおいておかれ

たことを、禁じようとする人に従ってはなりません。むしろそのような禁止に対してはことばと行為によ

って反抗し、挑戦的精神をもってのぞむのが、だれにとっても必要です。

                                  ローマ人への手紙講解