なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(38)

 今日は「牧師室から(38)」を掲載します。2000年に教会の機関誌に書いたものです。

 昨日は一日、岐阜坂下にいる連れ合いの従妹の夫の葬儀に、連れ合いと一緒に私も行ってきました。朝

7時に鶴巻温泉駅をたち、小田原から新幹線で名古屋に行き、中央線で中津川の少し先になる坂下まで約4

時間かかりました。午後1時から葬儀が行われ、坂下教会の木村忠司牧師の司式でした。葬儀後火葬に

し、山の上の小さな火葬場に隣接しています墓地に、その後すぐに埋葬しました。そこまで立ち合い、坂

下午後5時40分発の電車に乗り、午後9時30分ごろ鶴巻のマンションに着きました。

私の連れ合いの従妹の娘は、私が名古屋の御器所教会時代に一時牧師館に一緒に生活し、そこから美容学

校に通っていたことがあります。今はイラン人と結婚して2人の子どもを与えられて、ドイツで生活して

います。父親の入院を見舞うために一時帰国していましたが、19日に父親が召され、葬儀を済ませて、明

日22日にドイツに戻るようです。

親族の関係は、こういう時にしか顔を出しませんが、集まった親族同士が過去のつながりを確かめ合った

りして、不思議な連帯感のようなものがよみがえるものです。連れ合いの母方の親族ですが、現在も教

団の教会に連なっている者もいて、私の戒規免職問題及び裁判についても聞かれました。自分の出席して

いる教会でも、話題になっているところもあり、全く触れていない教会もあって、それが教団なのかと改

めて思わされました。



                   牧師室から(38)

 若い方には意外に思われるかも知れませんが、日本赤軍重信房子が大阪で逮捕されたというニュース

は、私の世代の者には「70年問題」と結びついて、ある感慨を呼び起こす事件です。

 人は、好むと好まざるにかかわらず、時と場に制約された社会な中で生きるしかありません。60年後半

から70年前半までの日本社会に生きた青年の多くは、息苦しい既存の社会体制に反発しました。その反発

学生運動として、社会的な行動に向かったのです。けれども、体制は強固でしたので、追い詰められた

運動の中には、私たちの想像を超えていく部分がありました。浅間山荘事件に結実した集団リンチ殺人も

その一つですし、海外に拠点を移し、世界革命を夢見、テロ事件を繰り返した重信房子日本赤軍もそう

です。最近テレビ放映のあった集団リンチ殺人の永田洋子の獄中での心境は、あの時代の反省に貫かれて

いました。瀬戸内寂聴は、永田洋子を生み出したのは社会であり、この社会に生きる私たち一人一人でも

あることを語っていました。

 今、いじめや自死として顕れているこの社会での行き場のない情念は、かつての社会変革を夢見て飛翔

することもできず、陰惨な形をとっているように思われます。既存の社会を相対化できるはずのキリスト

教信仰は、かつても今も、青年に道を示し得ないでいるのではないでしょうか。

 重信房子の逮捕に、刃が自分に向かって来る思いです。
                                       2000年11月



 先日行われた「学びと語らいの集い」は「学び」に重点を置いて行われたここ数年の集いとは違って、

「語らい」に重点が置かれた集いになりました。それだけに、各分団では率直な発言が多かったように思

います。

 残念ながら、教会の理念、伝道師問題、信仰の継承(青年や子どもたちへの働きかけ)、対外献金の扱

いを含めた会計問題とテーマが盛り沢山のロールプレイでしたので、分団での話し合いもテーマを絞るこ

とができずに、少し散漫になってしまったようです。

 私が出た分団では、信仰の継承の問題で日曜学校の子どもたちや青年への教会の対応が話題になりまし

た。教会からの若者離れを危惧され、高齢者は自分たちで何とかやっていくから、教会は青年伝道に力を

注いで欲しいという意見がありました。また、青年を教会に呼ぶための集会を開いても、青年は来ないと

思う。青年が何かにぶつかったときに、受けとめられるようにしておくことではないかという意見もあり

ました。そして、教会に青年をというよりも、青年の目線に教会が立つことが大切ではないかという意見

もありました。それぞれもっともな意見です。これらの意見を聞きながら、ふと思わされました。かつて

青年が多かった私が当教会の伝道師だったときも、前任のG教会の時も、自分自身膨大な時間を青年と共

にしたことを。また、私だけではなく、同じような大人が何人かいたことを。問題はその辺にあるのかも

知れません。
                                      2000年12月



 私は昨年暮れから今年のお正月にかけて、この教会で青年時代から知っている、Oさんの個展と三浦半

島で行われた「半島・1」に出したSさんの野外の作品を観る機会を得ました。

 教会のクリスマス行事がすべて終わった12月27日、長者町のギャラリーで開かれていたOさんの個展の

最終日でしたが、彼女の日本画の画材で描かれた色彩の美しい明るい抽象画を観ました。彼女の作品は以

前彼女の自宅アトリエで描かれた荒々しく迫力満点の山の絵しか観ていませんでしたので、今回の作品は

ととのった美しさが際立ちました。宇宙の生命力をテーマにした作品のようです。その後くれた彼女の手

紙には、「私は海辺の小石のような存在だとよく思うこの頃です。太陽の温かい光線や打ち寄せる波に毎

日、感動して生活しています」とありました。そういう存在する喜びのようなものが、確かに彼女の絵に

はあるように思いました。

 一方Sさんの絵は、キャンバスという枠組みを一切取り払って、運動場のバックネットを後から支える

鉄骨にはられた何枚かの多彩な青一色の敗れた画布であったり、中学校の運動場のフェンスなどにはった

同じ青一色の破れた画布が作品でした。その画布の破れはクレーン車を借りて鉄球に包み地上に落として

つけられたものとのことでした。そこあらは怒りや破壊のようなものが伝わってきました。彼の作品は1

月4日に観ましたが、三浦海岸の紺碧の冬の海と妙に響き合っていて、Oさんの作品とは対照的でした。

                                       2000年12月