今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(181)」復刻版を掲載します。
この通信には、「日々のもことば」としてこの頃はルターのものを掲載していました。ルターの
文章は、時には疑問に思える個所もありますが、歴史的な文書として、そこから何かを感じ取れれ
ばという思いで掲載していました。今日のところも、最後の出典を示す、「単純な信徒のため
の・・・」という言い方には差別的なものを感じます。また、今日のルターの『日々のみことば』
は「試練」がテーマになっています。通信の私の発言の中にありますクシュナーの苦難についての
ものと共に、今私は裁判の一審判決「却下」を受けて、この自分の置かれた現況が、ルターやクシ
ュナーの言う試練とか苦難とは思っていませんが、多少それに近い心境を持つこともありますの
で、たまたま今日この通信復刻版を掲載したことが不思議に思われています。
黙想と祈りの夕べ通信(181[-24]2003.3.16発行)復刻版
私たちは様々な苦しみにぶつかり、その当事者になりますと、なかなか祈れないという経験をす
るものです。先日も病床に在る年配の方を見舞いましたときに、激しい痛みと苦しみにより、いよ
いよこれが最期ではないかという思いをもち、祈ろうとしても祈れなかったと、おっしゃっていま
した。私はそのお話しを聞きながら、そういう祈れない状態の中でその方が無意識に神に委ねてい
るのではないかと思いました。聖書の中にも、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたし
たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとしえ、御子をお遣わしになりました。ここに愛が
あります」(ヨハネ第一の手紙4:10)とありますように、苦しみ祈れない者を包む神の愛の深
さ大きさを思わずにはおれません。以前に教会だよりの「牧師室から」でもご紹介しましたが、ユ
ダヤ教のラビであるH.S.クシュナーの『なぜわたしだけが苦しむのか~現代のヨブ記~』で、
著者は、「最後に、『神はなんの役に立つのか? 正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとし
たら、だれが宗教なんか必要とするだろうか』と問う人に、答えましょう。神は悲惨な出来事を防
ぎはしないでしょうが、不幸を乗り越えるための勇気と忍耐力を与えてくれるのだと。以前に持ち
合わせていなかったそれらの能力が、神以外のどこから得られるというのでしょうか?」と述べて
います。
上記の私の発言に続いて、一人の方から以下のような発言がありました。この方は、その人の立
場にならなければ、なかなかその人の思いが分からないということを、もみじの会のテープ朗読で
のことから語られました。改革派静岡センターから郵送されていたもみじの会の教団新報のテープ
朗読を、今回直接もみじの会から8人の方に直接送ることになり、郵送した。その8名の中の一人の
方から、もみじの会の住所と電話番号を知らせてくださいという返信をいただいた。テープを郵送
する袋には紅葉坂教会の住所が書いてあるのでと思っていたが、視覚障がいの方にはそれを読むこ
とができない。テープを郵送するとき、もみじの会の住所と電話番号を点字でも、声でも入れてい
なかったので、読み手の視覚障がいの方には分からなかったのだ。相手の立場に立たなければ、分
からないことが多い。自分自身が身近な者の気持ちも分からないこと、自分がなかなか相手の立場
になれない存在であるということをよく認識して、教えてもらわなければということを、学ばせて
もらった。
また、別の方からの発言がありました。自分の勤めている会社で最近組織発表があり、同期入社
の10人の内4人の名前がなかった。まさかリストラになったのではないかと、仲の良い人に電話し
た。1月に面接があって会社から戦力外と通告され、会社にいてもよいが、部署がないと言われ、
これから就職活動をするところだということだった。会社のリストラの対象者の中に同期の4人も
入るとは思わなかった。その中の親しい友人は北九州時代に助けてもらったりしていたので、身を
切られる思いである。来年は自分の担当している営業もリストラの対象になると言われている。ど
うすることも出来ない。僕自身会社に対して、会社が何故早く手を打たなかったのかと言いたいと
ころだが、自分は今会社にいるので、整理がつかないでいる。早く4人が仕事を見つけて、安心し
て生活を送って欲しい。
現在の日本経済の不況の波が身近な者を襲っていることを痛感させられる。この厳しさの中で生
き延びる手立てが与えられるように切に祈りたい。
「試練に囲まれて」(『ルターの日々のみことば』より)
あなたは神にうけいれられたものであるから、試練がそれを証明しなければならない。
トビト11:15(外典)
神ご自身がわたしたちの生涯を試練のうちに招き、からだと財産と名誉を損し、不義に耐えねば
ならないように定められたのですから、試練に会っても喜んでこれを受け、賢明に対処しなければ
なりません。そして、「しかり、これが人生だ。では、どのようにすべきだろうか」と考えるので
す。それは試練であり、試練としてとどまり、試練以外のなにものでもありません。それゆえ、神
よ、あなたがわたしを助け、わたしが動かされ、倒れることのないようにしてください。
だれも試練から引き上げられることはありません。しかし、わたしたちは祈りのうちに神の助け
を求め、導きを乞い、自分を守ることができます。さて、この長老たちの書を読むと、あるひとり
の若者がこのような思想からのがれようとしておりました。ところが長老が言いました、「愛する
若者よ、あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくる
ことを妨げることはできる」。(アウグスチヌスが言っているように)同様に、わたしたちも、試
練や、つまずきからのがれることはできませんが、祈りと神の助けによって、うち負かされること
を防ぐことはできます。
なぜ神は罪の試練に人を会わせられるのでしょうか。それは、神と自分自身をよりよく知らせる
ためです。自分自身を知るとは、自分が罪以外のなにものをもせず、悪のみをなすということを知
るのです。神を知るとは、神の恵みはあらゆる被造物よりも強いということを知ることです。この
ようにして、人は自分を軽蔑し、神の恵みをたたえ、讃美することを学びます。
単純な信徒のための主の祈りの講解