なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(221)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(221)復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(221[-12]2003.12.21発行)復刻版

 昨日当教会を会場にして教区の社会委員会主催の公開学習会「イラクからの問いかけ」がありました。

私も出席しました。二人のパネリストの発言とディスカッションが中心でしたが、いろいろ考えさせられ

る指摘を与えられました。一人は、以前にも何度かお話を聞いた横須賀で活動しているNさんで、もう一

人はNGO国際ボランティアセンターのSさんです。Sさんは中東が担当でパレスチナアフガニスタン

イラクの現地にも行かれて、現地の事情に明るい人です。特にSさんのお話から、イラクの民衆の状況

や願望を判断する材料を与えられたように思います。また、戦争や復興が金儲けと密接に関わっているこ

ともよくわかりました。NGOにも国からお金が出て、NGOの中立性が危ぶまれる場合もあるとのこと

でした。Sさんのお話の中で、やっぱりそうかと思わされたことがありました。それは戦争で金を儲ける

一部の人たち(現在では多国籍企業と考えたらよいのでしょうか?)の存在です。これは「教えられなか

った戦争」シリーズを作っている高岩仁さんというフリーの映画監督の方が繰り返し主張していることで

すが(戦争で金儲けするのは資本家である)、Sさんは、現在アメリカによる侵略戦争でも同じことがあ

ると言っていました。その一部の金がもうかる人たちは、国がどうなろうと民衆がどうなろうとかまわな

い、金が儲かりさえすればよいという考え方ですから、今度のアメリカのイラク戦争によってアメリカの

国自体が疲弊しつつあるにもかかわらず、そのような一部の人たちには、イラクだけでなくアメリカの国

がどうなろうとかまわないというのです。テロ撲滅による民主主義と世界平和をという主義主張を掲げ

て、この戦争は正当だと言ってアメリカ大統領ブッシュによって行われる戦争に世界中が巻き込まれて混

迷の度を深めている世界の現状を、せせら笑いながら見ている存在を想像しますと、やりきれない思いに

支配されますが、そういう側面も現在の世界には無いとは言えないように思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。日曜学校のクリスマスを終わって、いつも感

じることがある。今回はペイジェントの脚本からみんなで創った。バックの絵、音楽、照明、その他いろ

いろな役割を担う者たちが、準備の段階ではこれで出来るのかと思いながら、ペイジェント本番の一時に

集中する。すごいと思う。本番に強い教会と言われているが、それなりの準備があって本番で集中できる

のだと思う。Kくんが、こんなに日曜学校のために時間を使ったのははじめてだ、と言っていた。当日来

れなくなった人の代役、彼を含めた3人で歌う歌の練習のためだった。また2週間来れなかった子どもた

ちが本番でバッチリできた。多分家庭でそのために準備していたのであろう。代々伝えられてきた日曜学

校の業が継承されていることを感じた。大人の人も子どもたちのペイジェントを見てくれる。M独特のあ

り方に感謝している。今日、日曜学校でペイジェントができる教会は少なくなっているという。子どもが

少ないというだけでなく、子どもが来ていても忙しくてペイジェントができないという。これからも続け

ていくことを信じて、日曜学校のお手伝いができればと感謝している。

 また、もう一人の方の発言がありました。日本の政府による戦前戦後の大企業保護について、その延長

線上に日本の高度成長があり、その恩恵を一市民として受けてきたことの複雑な思いについて話された。

また、ドイツと日本の兵役を拒否をした人の処遇の違いについて、ドイツでは兵役に代わり福祉の仕事を

させられ、日本では兵役拒否者は逮捕され、変な人とおもわれたと。




      「悪魔に立ち向かえ」(『ルターによる日々のみことば』より)

 その時になると、不法の者が現れる。この者を主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅

 ぼすであろう。                第二テサロニケ2:8


 小さな群れキリスト者は、主に従ってきょうも悪魔に言います、「悪魔よ、退け。『主なるあなたの神

を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。すなわち、神のことばはつねに彼らとともにあり、彼ら

はみことばのうちに生きています。彼らは読み、数え、のべ伝え、罰し、すすめ、慰めなどしつつ、たえ

ずみことばを学び、それによって神の選ばれた民のうちにあっていっしょうけんめい働きます。それゆ

え、彼らはその名がどんなにすばらしく、その光がどれほど輝いていても、自分できめた仕事や奉仕には

もはや信頼しません。彼らはキリストのうちにあって、わたしたちに約束され、明らかにされた、はかり

知れない神の恵みとあわれみの上にのみ立ちます。

 このようにして、執念深い悪魔は、神の口から出る息、すなわち、主の使者たちによってのべ伝えられ

る神のことばによって、滅ぼされます。このことはきょうも、更に、わたしたちが待ち望んでいる最後の

あがないの祝福される時まで、ずっと続きます。

 キリストの思いをもつわたしたちは、すべて、大いなる神とわたしたちの救い主イエス・キリストの栄

光が、喜びと慰めに満ちて現れる日がすぐ戸口まで来ていることを期待しています(イエス・キリスト

今は弱く、貧しく、軽蔑され、又、主に従う人たちのうちにあって、更にあざけられ、侮蔑され、つばを

吐きかけられ、十字架につけられ、殺されています)。わたしたちは又、数知れない恐れにも終わりが来

ることを期待しています。キリストが現れる時、わたしたちのいのちであり、希望である主は、きょう、

わたしたちがのべ伝え、信じているままの姿で現れます。主の尊いみことばときよい名を告白しているた

めに、わたしたちは、今、心身ともに悪といつわりの世によって苦しんでおり、そののろいとみじめさか

ら、キリストはわたしたちを救い出してくださいます。


                                1537年の説教から