船越通信癸隠苅魁 。横娃隠看1月19日
・12日の日曜日は、礼拝後説教についての話し合いをしました。この日は9人の出席者でしたの
で、礼拝堂から和室に移り、机を四角に並べ、座布団を敷き、まわるくなって話し合いをしまし
た。この日の使徒言行録14章8-20節をテキストとした説教の中で、リストラにおけるパウロの福
音の告知は、それを聞いたリストラの人たちにとっては、「新しい言葉」で、彼ら・彼女らの今ま
での価値観とそれによる生き方の悔い改め(方向転換)を迫るものであったという点を強調しまし
た。その関連で、クリスチャン新聞に連載していますナザレン教団の石田学さんの文章を一部紹介
しました。石田学さんは、教会を「主の弟子として生きる『対抗共同体』」と言っています(クリ
スチャン新聞2014年1月5日・12日)。「キリスト教的善を生きること自体、主の弟子としての生活
に他ならない。もし全ての教会員が、主の弟子として生きるなら、そのような人たちの共同体は、
この世における堅固な弟子の共同体として、世の風潮や価値判断に対する対抗的共同体となること
であろう」と。説教の話し合いでは、そのことが話題になりました。またこの日の船越通信には、
戦時下の明石順三の法廷での証言が掲載されていましたので、そのこととも関連して、今日におけ
る、特に教育現場での日の丸・君が代の問題も話に出ました。その後、昼食会に移り、Tさんが準
備してくださった昼食(京都風白味噌丸餅の御雑煮)を味わいました。京都風御雑煮を、私は初め
て味わいましたが、美味しくいただきました。たまたまこの日は御雑煮でしたので、出席者それぞ
れの出身地の御雑煮の話に花が咲きました。午後1時30分頃に昼食会を終えて、その後役員会を行
いました。
・役員会は午後3時ごろ終わり、役員の方々が帰った後、しばらく仕事をしてから午後4時過ぎに船
越教会を出て、鶴巻に向かいました。
・この週は、14日(火)に農伝の説教演習に行き、17日(金)は寿地区活動委員会がありました。
寿地区活動委員会は、この日委員会を一時間で切り上げて、寿で炊き出しなど活動を共にしている
街の人と共に、鍋を囲んで新年会を行いました。午後9時過ぎに終わり、後片付けはお願いして、
私は必要な書類を鶴巻に置いてきていましたので、この日は鶴巻に帰り、その書類を持って、18日
の土曜日早朝に鶴巻から船越に戻りました。
・さて17日の木曜日には鶴巻を早めに出て、京急黄金町の近くにある映画館ジャック&ベティで12
時5分から上映する「ハンナ・アーレント」を観てきました。久しぶりの映画鑑賞でした。この映
画のシーンの中で、一番印象的だったのは、アーレントがアイヒマンの裁判の傍聴記を発表したと
きの、彼女の親しいユダヤ人の友人たちの反応です。アーレントは一人の病床の友人を尋ね、自分
の書いた傍聴記の弁明をするのですが、ベットに横たわっているその友人は、アーレントに背中を
向けたまま、振り返ろうとしません。そのシーンの時だったと思いますが、アーレントが、「私は
友人を愛するが、ユダヤ人を愛することはできない」という主旨のセリフがあったように思いま
す。今手元に映画の脚本がありませんので、正確なセリフではないかも知れません。「具体的な隣
人としての友人であるユダヤ人は愛するが、民族としてのユダヤ人一般を抽象的に愛することはで
きない」ということなのでしょう。私はそう理解しました。これは、シオニストにとっては、どん
でもない考え方ですが、人間としては極めてまともな感性ではないでしょうか。そういう感性をも
ったハンナ・アーレントがアイヒマンの裁判を傍聴するわけですが、600万人とも言われるホロコ
ーストの犠牲者を持つ同じユダヤ人の一人として、事実を見極め、それを考え抜くその姿勢はすご
いと思いました。私たちは事実の中に真実を見極める忍耐強い作業に耐えかねて、事実を憶見で判
断してしまうことが多いのではないでしょうか。
・必要があって宣教論の本を読んでいます。私の書棚にありましたので、前にも読んでいたかも知
れませんが、渡辺英俊さんの『旅人の時代に向けて~21世紀の宣教と神学~』を読みました。2001
年発行ですから、もう10数年前の出版になります。この本の最後の方に「財産を持たない教会の
試み」という表題で書いているところがありますが、その部分を引用します。
・「今日、日本の大都市にある多くの教会は、時価数億円―数十億円の財産の上に立っている。そ
して、財産を持った者は必ず保守化する。今、そのことを一挙に清算することはできないとして
も、少なくとも非福音的な事態なのだと自覚すべきである。その自覚に立って、共同の課題とし
て、財産を持たない教会の可能性を探求すべきである。/たとえば、一つの小さなキリスト者のグ
ループが、多くの問題を負わされた地域に、新しい教会を作ることができる。そこでは、地域の諸
問題に何らかの関わりを持つ信徒たちが、小さな集会の場所だけを確保し、主日の礼拝を守りなが
ら、そこで聖書がどのように読めるかを実験することができる。周辺の諸教会は、人的・経済的に
それを支えつつ、そこから発信させるメッセージに注意を集中し、それによって教会員の意識の変
革を助けることができる。/このような試みは、遠くない将来、収奪地域の浪費を極めた文化と社
会の総体が、一挙に崩壊する日に備えて、新しい、未来の人間的な生のあり方、価値観とライフス
タイルのモデルを構築する作業である。現代社会に最も求められていることであると思う。すでに
一部の先駆的な人々によって始められているが、それはまだ、ごく限られた個人や小グループの私
的な実験に留まっている。このような試みが教団・教区規模で計画され、支援され、プログラム化
されるべきである」(201-202頁)。現在の教団では殆ど可能性はありませんが、もし教団が現代
社会の構造と状況を踏まえて宣教方策を立てるとすれば、渡辺英俊さんの提案には聞くべきものが
あるように思います。船越教会は土地と会堂を与えられていますが、渡辺英俊さんが言われるよう
に「時価数億円―数十億円の財産の上に立っている」教会とは言えません。「小さな集会所」に等
しい教会ではないかと思います。その船越教会が、平和宣言を掲げている教会として、「現実と聖
書の往還」の中で、「新しい、未来の人間的な生のあり方、価値観とライフスタイルのモデルを構
築する作業」を地道に積み上げていきたいと思います。