なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(392)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(392)復刻版を掲載します。2007年4月のものです。


      黙想と祈りの夕べ通信(392[-27]2007・4・1発行)復刻版


 月曜から今日まで一日2,3時間をかけて三ツ沢にあります教会墓所の整理をしてきました。近々

墓所の改修が行われることになっており、それが完成した段階で合葬にしてもいいお骨と骨壷には

いったまま遺しておかなければならないお骨区分けし、残しておくお骨を梱包して来ました。今日

もその作業をしてきましたが、私がお墓の中で作業をしていたときに、ご両親のお骨を教会墓所

納骨しておられる方が、お花をもって墓地にいらっしゃいました。所謂お墓参りにいらしたのでし

ょう。すると墓所の扉が開いていて、お墓の中で誰かが何かをしているので、その方は最初びっく

りしたと思いますが、それが牧師である私だったので二度びっくりなさったことでしょう。お墓の

ところで少し立ち話をしました。教会員の方ですが、直接お話したのは今回がはじめてです。不思

議な墓地での出会いでした。墓所の整理をしながら、埋葬されている一人一人のことを懐かしく思

い出していました。さて、いよいよ受難節も受難週に近づいてきました。今日の福音書の箇所は、

弟子のヤコブヨハネがイエスに願って、栄光をお受けになるとき、一人を右に、もう一人を左に

座らせてくれといった記事です。その記事の最後で、イエスは「人の子は仕えられるためにではな

く仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われ

たとあります。イエスの受難を前にして、弟子たちがめざそうとしているものとイエスがめざそう

としているものが相反していることが露になっています。この両者の生き方の違いは際立っていま

す。私たちもヤコブヨハネの思いを内に抱えている者です。そしてそういう私たちであることを

十分知った上で、こんな私たちのためにこの世に来られ、私たちを招いてくださるイエスに従って

歩んでいきたいと願うものです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。今晩は、ナウエンの『今日のパン、

明日の糧』の3月25日の箇所「癒しの触れ合い」が頭を巡っていた。「人に触れることは言葉にな

らない愛の言葉を語りかけます。しばしば言葉よりも多くのいのちを与えてくれます。触れ合う瞬

間は、回復をもたらし、人を和解させ、安心させ、許し、癒します。イエスに触れた人はみな、そ

してイエスに触れられた人はみな癒されました。」(抜粋)とナウエンは言う。私も抱きしめられ

たり、肩をそっとたたかれたり、手を握ったりされて慰められ、気力を与えられた経験が何度もあ

る。特に親しい人を亡くすなど言葉にならない悲しみに出会っている時や、苦痛を感じている時

に。また、日常のさりげない触れ合いからも力をもらっている。触れ合うことによってそこに何か

が起こっている。人間は身体を持っている存在だなあと感じる。身体はやがて死を持って無くなる

のだが、やはり大変愛おしいものだとも感じている。

 続いてもう一人の方の発言がありました。去る日曜日に自分は川崎の教会に出席した。洗礼を授

けてくれた牧師が28年間その教会を牧会されて隠退するので、その牧師夫妻を送る会があり、招か

れたからである。その会に出席して28年の歳月の流れを思いながら、自分のことを振り返ることが

できた。自分が何もわからなかったときに、カトリックの神父さんとの出会い、そこから信仰に導

かれ、教会に導かれて、現在の自分があることを思うと、信仰を与えられて今日まで歩んでくるこ

とができたことが不思議でならない。川崎の教会は、若い人たちが中心になっていたので、自分も

考え方を変えなければならないのではないかと思わされた。



        「内気であることのすばらしさ」  4月1日


 内気であることには、何か言い知れぬすばらしいものがあります。私たちの文化は内気であるこ

とを長所とは考えません。むしろ単刀直入であり、相手の目を見、自分の思うことを語り、恥じる

ことなく自分のことを打ち明けるようにと奨めます。

 しかし、そのような尻込みせずに自らを開け広げて、恥ずべきことを打ち明ける姿勢に、うんざ


りさせられます。それは影のない木のようなものに見えます。しかし、内気な人々は長い影を持っ

ています。この内気な人々のすばらしさが、闖入者の目から隠されてあり


ます。内気な人々は簡単に説明出来ない、また言葉にしきれない人生の神秘を思い起こさせてくれ

ます。内気な人々は敬虔で尊敬に満ちた友情へ、そして愛の内に何も言わずにただ傍らに留まるこ

とへと私たちを招いているのです。
 
                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)