なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(158)

               船越通信癸隠毅検 。横娃隠看5月4日               

・27日(日)の礼拝には、昨秋私がボランティアの世話をしました高校生が礼拝に出席しました。彼はこの4月

に大学生になり、今は行き帰り各2時間をかけて大学に通っているそうです。元気そうで、私は再会をうれしく思

いました。この日の礼拝後お茶を飲みながらの懇談で、専ら彼の希望する大学卒業後の学校教師への道について

話しが集中しました。私は、もう3人の子どもたちが40代になっていますし、私の子どもたちはそれぞれ自由にし

てきましたので、大学卒業後の就職について、実態はほとんど知りませんでした。けれども今回いろいろと話を

聞いて、大学の偏差値が企業の雇用にも影響を与えていることを知りました。どこの大学を卒業したかで、企業

の門戸が開かれるか、閉じられるかが決まってしまうというのです。それはありそうなことだとは思っていまし

たが、いろいろ話を聞いていて、現実は私が想像していたよりも、随分先に行っているように思いました。公務

員の場合は、さすがに就職試験の点数で決まるので、どこの大学を出ていても、その影響が就職試験に影響する

ことはないということでした。公立学校教師の場合も同じなので、とにかく大学で一生懸命勉強して、大学の偏

差値に関係なく実力で試験を突破する道が開かれているといことでした。

・私は、その話を聞いていて、教会で語る私のメッセージは、現実離れした観念の世界の話としてしか聴かれな

いのかもしれないと、改めて思わされました。ただ現実を補完する話を聖書から引き出すのは無理ですので、信

仰者と現実との持続可能な緊張関係を意識して、現実に触れる聖書の言葉の解き明かしに努めたいと、思いを新

たにさせられました。

・27日(日)の18:00~から、紅葉坂教会でかながわ明日の教団を考える会がありました。この日は教会総会の

行われた教会もいくつかあったようで、「教会総会が終わって、疲れたので今回は失礼します」という連絡をく

ださった方もあり、いつもより参加者が少な目でした。ただこの4月から神奈川教区の教会に着任した新任牧師

のYさんが出席してくれました。話し合った内容としては、2月教区総会の反省と6月教区総会への取り組みにつ

いて、福島の家族の保養プログラムであるリフレッシュ@かながわ(5月3日~6日)をはじめ東日本大震災被災

者支援について、私の戒規免職問題と裁判についてなどです。このかながわ明日の教団を考える会も、12年目に

入っています。2002年の秋の教団総会で名称変更議案をはじめ合同のとらえなおし関連議案が全て審議未了廃案

になって、沖縄教区が教団との間に距離を置くことになってから、2002年の年末にこの有志の会が活動を開始し

ました。それ以来、2~3か月に一回開催し、今回で60回を数えました。

・現在の日本基督教団の執行部をはじめその大勢は、戦責告白以後の40年の教団の歴史を、前教団議長の山北宣

久さんが規定したように、「荒野の40年」という負の歴史として見ています。この歴史認識とは異なり、戦責告

白以降の40年を日本基督教団の教会の在り方の模索としてそれなりの意味を認めている立場の人たちや教会が一

方にあり、その二分化が70年代以降の日本基督教団の歴史を貫いて現在に至っています。私の戒規免職問題もそ

ういう日本基督教団の構造の中で生み出されてきたものと考えられます。かながわ明日の教団を考える会は、神

奈川教区における後者に属する有志の会と考えてよいと思います。けれども、年齢が50代より下の人たちには、

70年以降の教団の二分化は自分が主体的に受け止めるというよりも、既に存在する事実として受容するほかない

現実として受けとめているでしょうから、私のような1969年に教団の教師になって、70年以降の教団を生きて来

た者とは、おそらく教団に対する考え方及びスタンスが違っているのではないかと思います。かながわ明日の教

団を考える会に協力はしてくれる方はいますが、若い方は家族問題もありますし、個人的な事情もあって、共に

担うところまでの関わりはなかなか困難です。私自身は、今は、やれるところまではやろうという覚悟で臨んで

います。

・この週はゴールデン・ウイークに入りました。連れ合いが4月29日の午後1時から横浜球場で行われるベイスタ

ーズと中日の内野席の観戦券を知り合いからもらいましたので、この日は急遽野球観戦ということになりました。

お陰様で久しぶりの野球観戦を楽しむことができました。かつて1974年4月から1977年3月まで紅葉坂教会の伝道

師時代には、青年達とよく野球観戦にも出かけていました。70年の余波で私が74年に紅葉坂教会の伝道師になっ

た時は、ほとんど教会に青年はいませんでしたが、今は60代半ばになっている当時の牧師の2番目の息子が、教

会の4階にある牧師館から、同じ教会の建物の1階部分にあった私たちが生活していた伝道師室に、夜になるとや

ってきて、2室しかない伝道師室の一室にまだ小さかった私の3人の子どもが寝ている隣の部屋でよく酒を吞んで

いきました。そこに当時まだ40代の企業に勤めていた教会員が、仕事帰りに来るようになり、また、その牧師の

息子の友人知人が集まるようになって、見る見る青年達が増えて、それこそ野球チームを作って、三ツ沢公園

野球場で他のチームと試合をしたこともありました。今回、横浜球場で野球観戦をしながら、そんな昔のことを

思い出しました。当時私は30代前半でしたから、40年も前のことです。この日ベイスターズは中日に勝ちました。

この勝利を含めて、今季はじめてベイスターズは同カード3連勝をしました。

・この週の木曜日1日に船越に来て、2日は5月5日~6日開催の西中国教区総会に裁判のことで私が陪席させてもら

うその準備があり、船越にあった書類を鶴巻に持ち帰り、船越には3日の午後に来ました。教会に着きましたら、

ちょうどNさんが教会のお掃除をしてくださって、帰るところでした。教会の庭にある桜の木には、サクランボ

が大分赤味を帯びてきました。明日の日曜日がサクランボ狩りにちょうど良い日のようです。Nさんが帰った後

に、ピンポンという音がして、教会の玄関に出てみますと、田浦に住んでいます私の姉の従妹の子が立っていま

した。その子の母の妹から、私の姉から贈られてきた筍をもらい、三浦のわかめと煮たのでと言って、わざわざ

私のところに持ってきてくれました。感謝。