なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(435)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(435)復刻版を掲載します。2008年1月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(435[-17]2008・1・27発行)復刻版

 ひとりの方からの発言がありました。今日は寿の昼食会のボランティアに行き、3人で奮闘して食事を作っ

てみんなと美味しくいただいた。その後金沢文庫の病院に入院しているIさんをKさんと一緒に見舞った。Iさ

んには何年もお会いしていなかったが、すぐに打ち解けて兄弟姉妹の絆の深さを思い、感謝して帰ってきた。

 続いて、別の方からの発言がありました。今日の聖書朗読の聖句マタイによる福音書20章1-16節aは、私の

大好きな箇所である。あるテレビ番組でニートや引きこもりの若者にそのまま生きていて良いんだよと国が

生活費を出したら半数くらいの人が社会に出てくるのではないかと話していた。この譬の主人は朝から働い

た人にも夕方働いた人にも等しく1デナリオン支払っている。まさしくこの聖書箇所に通じる気がする。旧

約の落穂拾いの物語の生き方に通じるものを感じる。食事つくりに出かける作業所で感じることだが、1日

まじめに働いても工賃が低く1ヶ月の給料支払日に「今月は大台に乗ったよ」と聞こえてくる。いくらかな

と思うと1ヵ月、1万円になったとの事。やはり、障害者に対する保障は少ない。みんなが健康的な生活が

出来るような社会が来ることを願う。年度末になるとあちこちで予算消化のためと思われる工事が見られる

し、防衛費、思いやり予算などを考えるともっと上手に税金を使うことが出来ればと思う。旧約聖書の落穂

拾いの物語も労働者の譬と通じるものがあるように思う。毎週食事作りに通っている知恵遅れの方の作業所

で働いている人は、一ヶ月の働きの報酬が一万円くらいで、一万円を越えると大台を越えたと言う。一日そ

の作業所にいても、余り働くことがきでない人もいるが、ぶどう園の物語のようにみんなが生きていける一

日の食と生活が保証される社会が来ることを願う。防衛費や年度末になるとあちこちで行われている予算消

化と思える工事などをなくして、もっと上手に税金を使うこことができればと思う。

 続いてもう一人の方の発言がありました。 ぶどう園のたとえの箇所から今回響いてきたのは、「生きて

いくのに必要な衣食住が日々、すべての人に与えられ、どんな人もその人らしく生きてほしい」と神様は望

んでいるということ。現代の私達の収入は金銭であり、それが世の中を見えなくしているのかも。能力や時

間、作業量などを基準に金銭を得るが、それがもしモノだったら。例えば一人の人がお米を短期間に100kg得

ても食べきれず古くなってしまうので分かち合うのは必然となる。一人が必要な分量は大体決まっている。

しかしお金だとどんどん貯められる。そして無い人を支配・無視し、有る人の都合のいい社会にしているの

かもしれない。神様がすべての人に与えられた異なる賜物を尊重しながら、その賜物を分かち合い、一人一

人が喜びをもって生きていく世の中にしたい。

 分かち合いを始める時に、喉がかれて話しずらかった私は今回最後に発言しました。今労働者の譬につい

て話された二人の発言と関わるが、この問題は「能力において働き、必要に応じて使う」ことができる社会

が理想的であるわけです。しかし現実の日本の社会は規制緩和による自由化が進むに従って、グローバルな

資本競争の影響を受け、むしろ格差が広がってきていると言われています。最近川崎昌平の『ネットカフェ

難民~ドキュメント「最底辺生活」』を読んでみました。この著者は東京芸大を出ている人で、ニートから

ネットカフェ難民として生活しているようですが、追い詰められてネットカフェ難民になったという感じは

しませんでした。ただネットカフェ難民がどういう生活をしているかということが、比較的よく描かれてい

るように思いました。定職はもたず、携帯電話で登録した日雇い仕事を紹介するところから指定するところ

へ行って、一日だったり、数日だったり働いて日給を稼いでいるのです。余裕のある時は働かず、お金が底

をつきそうになると働くという暮らしをしているようです。夜はネットカフェに泊ったり、余裕のある時は

カプセルホテルに泊ったりするそうですが、読んでいて、安定した住居に寝泊りできないのは、大変だろう

なーと思いました。そういう人も増えていると言われますから、「能力において働き、必要に応じて使える」

社会から、どんどん日本の社会は遠ざかっているように思えてなりません。世界でそういう意味でそのよう

な社会に近いのは、以前辺野古の座り込みで一緒したキューバ人と結婚してハバナに住んでいるという日本

人の女性の方が、キューバではキューバ人は住宅も教育も医療も保証されていて、大変住みよいところだと

おっしゃっていました。 


           「許しを通して自らの心が癒される」  1月27日


 どのようにして私たちは、許されることを望んでいない人を許すことが出来るでしょうか。私たちの許し

が相手に受け入れられることを、私たちは深く深く望んでいます。与えることと受け入れることの相互の関

係が、平和と調和を生み出します。しかし、もし私たちが受け入れられることを条件に許すのであれば、ほ

とんど許してはいないのです。他の人を許すということは、何よりもまず内なる心の動きです。それは怒り

や苦々しさ、心に巣くっている復讐心を取り除く働きであり、私たちの人間としての尊厳を取り戻させます。

私たちが許そうとする人々に、私たちの許しを受け入れるよう強制することは出来ません。人々は、許しを

受け入れることが出来ないかもしれないし、そうしたくないかもしれません。ひょっとしたら、人びとは、

私たちを傷つけたということに気づかず、あるいは感じてさえいないかもしれません。

 私たちが現実に変えることが出来るのは、私たち自身です。他の人々を許すということは、第一にそして

最も重要なことですが、私たち自身の心を癒すことなのです。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)