黙想と祈りの夕べ通信(436)復刻版を掲載します。2008年2月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(436[-17]2008・2・3発行)復刻版
私は最近斉藤環の『思春期ポストモダン~成熟はいかにして可能か~』という本を読みました。この著者
については前にもこの黙想と祈りの夕べで触れましたが、精神科医で「ひきこもり」の人の問題に取り組ん
でいる方です。著者はこの本でもひきこもりのことを扱っていますが、「統合失調症」もひきこもり状態と
起こり方やみかけがにているので、早い段階できちんと鑑別して、統合失調症ならば、それにふさわしい治
療を施していく必要があるが、そうでないひきこもりの場合は、「個人」「家族」「社会」という三つのシ
ステムを仮定して、そこに起こる「ひきこもりシステム」がひきこもりを起こすと考えています。「ひきこ
もりが起こると、まず、個人と社会との接点がはずれていく。それとほぼ同時に、個人と家族の接点もはず
れていく。ひきこもりは社会からひきこもるのみならず、このように家族からもひきこもってしまうことが
極めて多いのだ。さらに状況が悪化すると、家族と社会の接点もはずれていく。これは家族が、専門家、知
人など、誰にも相談できないまま、家庭内にひきこもりの問題を抱えこんでしまっている状態を指す」と言
っています。本人が学校に行きたくないのに、両親や家族の者が行け行けとの迫りをくり返します。当然本
人と家族の人との関係が悪化します。家族も社会も本人に攻撃的に感じられれば、自己防御としてひきこも
るということが考えられます。ですから、この著者は本人の問題だけではなく、本人と家族、本人と社会の
関係のあり方を少しずつ良好な関係に変えていくことも治療的な課題にしているというのです。ある時期学
校が土曜日も休みにして週2日休みになったら、不登校の子がその年には大分減ったそうです。学校を含めた
社会のあり方が現在のような激しい競争社会ではなく、もっとゆったりとしていたら、ひきこもる人も少な
くなるかもしれません。「個人」「家族」「社会」のそれぞれの関係性が、どんな人でもひきこもる必要の
ない包含的で豊かなものになっていったらと願わずにはおれません。
上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。自分は応募して、墨田区役所で来年からはじま
る陪審員による模擬裁判を、8人プラス裁判長の9人一組で8チームを作ってやってみたが、大変難しいと感
じた。今回の模擬裁判は、人の住んでいた建物に放火した死刑又は無期懲役の犯罪者の裁判である。我々に
求められた判断は、ー尊櫃砲靴燭どうか。刑の重さ。執行猶予にするかどうか。である。犯人は犯罪
を認めているという前提で行われたが、チームによって実刑5年というのと執行猶予とが半々に分かれた。チ
ームの構成員の違いもあるが、性別よりも年齢差による判断の違いが際立った。若い人の方が厳しかった。本
当の裁判は2日なので、ゆっくり考えることができるが、8チームでも判断の違いが随分あったので、どうな
るか心配である。でもよい経験をすることができた。別の話題だが、先週の日曜日4人でバザーをどうするか
話し合った。今年のバザーは一応役員会による追認を受けたが、教会全体としての正式決定が必要ではないか
ということになった。来週の役員会で話し合ってもらうことにした。バザーの目的としては、|楼茲箸慮鯲。
教会員相互の交流。若い人の参加。である。
また別の方の発言がありました。図書館に用事があって行ったが、そこで「福音と世界」の2月号を読んだ。
その中に「教師退任勧告」についてNさんという方が書いていた。一般社会から見て書かれていたので、自分に
は一番ぴったりした。紅葉坂教会が誠実にやっていることを肯定的に書いてくれていて、うれしかった。この
問題は教師や教会が問われていると共に、私たち一人一人の在り様も問われているのだと思う。
「内なる敵と友となる」 2月3日
どのようにして私たちは、私たちの内なる敵である欲望と怒りを友にするのでしょうか。欲望と怒りが何
を言っているのかを聴くことによってです。欲望や怒りは、「満たされない」とか「私を本当に愛してくれ
るのは誰」と言っています。欲望や怒りを好ましからざる客として追い払う代わりに、私たちは、追い詰め
られ、不安な私たちの心が癒しを必要としていることを認めることが出来ます。私たちの心の不安は、私た
ちに真に内なる安息を探し求めるように呼びかけています。欲望と怒りとがより深く愛する方法へと変えら
れるような安息を。
欲望と怒りは、手に負えない多大なエネルギーを持っています。そのエネルギーが愛することへと向けら
れる時、私たち自身が変えられるばかりでなく、私たちの欲望や怒りの犠牲になるかもしれない人々さえ変
えられるのです。これには忍耐を要しますが、不可能ではありません。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)