なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(434)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(434)復刻版を掲載します。2008年1月のものです。これは、掲載を間違え

て、飛ばしたものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(434[-16]2008・1・20発行)復刻版


 今日は新年の最初の黙想と祈りの夕べです。年末年始に風邪を引いて、そのために少しゆっくり出来ました。

昨年の秋以来「教師退任勧告」のことがありましたので、なかなかゆっくりと本を読むことができませんでし

た。ここに来て数冊本を読みました。その中の一冊は吉本隆明の『よせやい。』です。これは吉本と4,5名の雑

談会のグループが5回行った会の内容をまとめたものです。この本から教えられたことの一つは、現在の日本の

ような高度に産業が発達した先進国は、どんづまりの状態であり、そういう状況で大切なのは、自分なりの構

想力をもっていることだと言うのです。たとえば、教育者の場合、その人が文部科学省の大臣をやってくれと

いわれたら、その時に自分の構想力を展開して日本の教育を変えていけるような、そういう構想力を現在のど

んづまりの状況にあるこの時に、一人でも数人でも学び合い、話し合って持っておくということが重要なこと

だと、吉本は言うのです。そこには社会というものは、総体として成り立っているから、その社会がどん詰ま

りの状態に来ているとすれば、どこかに流れができなければ、変わりようがない。政治的社会的な運動で変わ

り得るものではない。構想力をもった人間が人口の半分を越えれば、何もしなくても社会は変わる。そのよう

な吉本の認識があるようです。ですから、構想力と同じように、人間力ということも言っています。人間力

は「人間が理想の可能性を描き得る能力」であると言います。また自意識の大切さについても言っていますが、

この構想力、人間力、自意識ということばで吉本が言いたいことは、要するに一人一人の人間が世間ずれして

この世の中をうまく生きようとだけ考えて生きているなら、どんなに逆立ちしても社会は変わらない。一人一

人が現実の社会を超える理想をもって生きていかなければ、どん詰まりの社会は変わらないということなので

しょう。私たちの中には自分の責任をとことん追及していくことよりも、社会に責任転嫁してことを済ます傾

向が強いように思いますが、自分のできることを生きている限り最後まで追い求めていくことの大切さを教え

られました。

 上記の私の発言に続いて以下のような発言がありました。日曜日に沖縄交流委員会の集会が当教会でありま

した。日本基督教団の沿革についてI牧師が発題された。質疑応答の中で一人の牧師が教団成立にも第二次世

界大戦にも、後から考えれば神の摂理があると自分は思うという発言をした。自分は摂理という言葉がそのよ

うに使われることに疑問をもった。戦争で犠牲となった人たちのことはどうなるのか。彼ら彼女らも神から命

を与えられた人ではないか。イエスの十字架、復活も神のみ業であり、人間の側で摂理と言ってしまうことか。

エスの十字架への道行も摂理か。私の父は牧師で戦死し、私は祖母に育てられたが、それも摂理か。牧師が

簡単に摂理と言ってしまうと、批判ができなくなり、すべてが肯定され、我慢せよという怖さを感じる。キリ

スト教用語の使い方に気をつけないと、人を傷つけてしまうのではないか。自分としてはキリスト教用語をで

きるだけ使わないで、日常語で言い表せるようにこの一年を歩み続けたい。

 続いて別の方から発言がありました。クリスチャンではないが、聖書に関心のある友人から年賀状をいただ

き、そこに今年は聖書研究をやってくださいと書いてあった。その方は年末から悲しみを抱えていて、聖書の

言葉を送ってと言われて、いくつか慰めの聖書の言葉を送った。その時は新約聖書よりも旧約聖書の言葉から

選んだ。クリスチャンではない苦しんでいる人や悲しんでいる人に聖書のどういう言葉が慰めになるのかとい

うことを考えて、生活の中で聖書を読んではいなかっので反省させられた。今までは聖書を頭で読んでいたよ

うに思うので、今年の課題としたい。

 今日の聖書の箇所(マタイ17:1-9)「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」は、今

週の日曜学校の聖書箇所(マルコ1:9―11)のイエスの洗礼のところ、ナウエンの『今日のパン、明日の糧』

にもあり、何度も私に迫ってきているような気がした。神の心に適うイエスの生き方に倣って生きたいと願う

が、現実には大変困難で私には到底無理!と思ってしまう。言葉では理解しても現実は難しい。でもこの言葉

が置かれている箇所には不思議な明るさや希望を感じ、惹きつけられる。希望、光はきっとここにあると信じ

て歩んでいきたい。

 また、もう一人の方の発言がありました。クリスマスの燭火讃美礼拝に孫が一緒に出席して嬉しかった。そ

の時孫の隣にMさんが座ってくれたので心強かった。それを機にもう一度新約聖書を読み直している。孫から聖

書の質問を受けても応えられるようにと思って。恵みを受けて新しい年を迎えられてありがたいと思った。お

正月には高一の孫に聖書を渡したら、思いがけなく喜んで持ち帰ったので励みになった。 


          「完全な愛への切望」          1月20日


 私たちが一人ぼっちの寂しさから行動する時、私たちの行動はいとも簡単に暴力的なものになってしまいま

す。多くの暴力が、愛を求めてのことであるというのは、悲劇です。一人ぼっちの寂しさから愛を探し求める

時、口づけは容易に噛みつくことになり、抱擁は殴打となり、心にかけて見ることが疑いの目で見ることにな

り、聴くことが立ち聞きに、身を任せることが強姦になっていまいます。人間の心は愛を切に求めています。

条件や限界、制約のない愛を。しかし如何なる人間もそのような愛を与えることは出来ません。私たちがその

ような愛を求める度に、私たちは暴力の道へと向かってしますのです。

 ではそうすれば、私たちは非暴力な生きかたを始めることが出来るのでしょうか。完全な愛を求めて止むこ

とを知らない私たちの心は、それを創られた御方との交わりを通じてのみ、それを見出すことが出来るという

ことを悟ることから始めなければなりません。
 

                      (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)