なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(544)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(544)復刻版を掲載します。2010年2月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(544[Ⅺ-22]2010・2・28発行)復刻版

 私の教師の免職処分があって、いろいろな方からお手紙や励ましの言葉をいただいています。多くの

方が等しく言われるのは、「体に気をつけてください」ということです。前回の通信にも友人からの手

紙を紹介しましたが、今回もある方からいただいたお手紙によって励まされましたので、紹介させてい

ただきたいと思います。それは、私の著書『自立と共生の場としての教会』を読んでの感想です。私の

本を以前に購入し、自分は神学にうといので理解できないだろうと思って、机の上に置いたまま長い時

間が過ぎました。でも、今回の免職のこともあって、私に対する理解が少しでも深まればとの思いから、

本を手にして読んでくださったようです。読んで見ると、思いのほか素直にスーッと入ったというので

す。この方は以前約20年ほど「マルクス経済理論」を大学で講義されていたそうです。ですから自分の

中には今だに社会主義思想が根底にあり、社会的弱者の問題も社会の仕組みの中から必然的に発生する

ものとして捉えていると言われます。けれどもその仕組みを根底から変えてしまうことが現実的に不可

能なら、資本制経済体制の枠組みのなかで高度の社会福祉国家をめざす以外に方法はないのではないか

と思うようになったというのです。しかし、今は年を重ね体力的・能力的制約から、それ以上研究を続け

ることができず、忸怩たる思いでいたところ、私の本を読んで、現実的な行動はできないが、頭の中で

少し整理の方向性がつかめたような気がしたというのです。特に私の本の中の「・・・・宗教的な救済を超

えて、人間の現実的解放を求めていくこと・・・」ということばがヒントになって、今まで魂の救済の問題

と人間解放の問題をバラバラに捉えていたようだが、社会科学を学んだ人間の考える人間解放とキリス

ト者の考える人間解放の問題の接点が与えられたように思われると。嬉しいことです。イエスの出来事

としての福音の射程は全的な人間解放にあると、私は常々思っていますので、私の本を読んでくださっ

て、この方のような感想を寄せていただけることは、私にとってはこの上ない喜びです。免職という不

当としか思えない事態に直面しているときに、思わぬ形での豊かな出会いや経験を与えられていること

を思わされています。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。1ヶ月近く教会に来れなかった。去年から胃

腸の具合がよくなく、ゲップが出て、ひどい時には胸が痛くなる。医者に診てもらったら、逆流性食

道炎ということであった。胃酸が食道に逆流する病気である。常時気持ちが悪い状態である。食道から

胃への管が通常は曲がっているのが、ほぼ直線になっている。また噴門の筋が弱くなっているとのこと

である。胃カメラをのんだ。その時写真を見せてもらった。結構ひどい状態とのことである。服薬と

回復力で治ればと思っている。1月に比べれば、少しよくなってきている。このように話せるようにな

った。以前は話すこともつらかった。食べ物も油っこいもの、酒、刺激物、甘いものはよくないとの

こと。食パンも甘いのでダメ。玄米パンはよい。マーボー豆腐やスパゲッティが好物だったが、今は

避けている。飲み物も刺激の少ないそば茶にしている。一番悪いときからすると、最近はテレビも観

れるし、簡単な本も読めるようになった。音楽もレコードで聴けるようになった。肩のこらない映画

も観れる。日曜日夜のテレビ番組で「コード・ブルー」というフライトドクター」の物語がある、4人

のフライトドクターと一人のフライト看護士が登場する。感動的な物語である。しかし、どんなにプ

ロセスがよくても、結果が悪ければ批判されるところがある。また、別の話になるが、私たちは自分

の苦しみ痛みには敏感であっても、他人の痛みや苦しみには鈍感であり無関心である。今回のトヨタ

のリコールの問題にも他者の苦しみに無関心なトヨタの姿勢があったように思われる。


           「神への恐れに別れを告げる」   2月28日


 空っぽであることを私たちは恐れます。スピノザは私たちの“horror vacui”すなわち「空へのす

さまじい恐怖」について語っています。私たちは空っぽの時間や空間をふさぎたがり、埋めたがりま

す。私たちは何かに専念していたいのです。さもないと、すぐに何かに心を奪われてしまいます。つ

まり空っぽに届く前に、私たちは空っぽの場所をうめてしまっています。「もし・・・・したらどうしよ

う」と、空っぽの場所を心配で満たしています。

 私たちの生活の中に空っぽさが存在するのを許すのはとても難しいことです。空っぽさは、色々な

事を自分が管理しなくてよい心の自由を必要とします。つまり、何か新しいこと、予期しないことが

起こるのを可能にするということです。それには、信頼すること、自分を明け渡すこと、導きに心を

開くことが必要です。神は、私たちの空っぽの場所に住もうとされます。けれども、私たちが神を恐

れ、神が私たちの生活の中でなさることを恐れ続ける限り、神に私たちの空っぽの場所をささげるこ

となどありえないでしょう。神を恐れることを止め、あらゆる愛の源として神を受け入れることが出

来るように祈りましょう。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)