なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(5)

      「背信の責め」エレミヤ書2:14-19、2015年4月19日(日)礼拝説教

・「イスラエルは奴隷なのか/家に生まれた僕であろうか」(14節)。エレミヤは、自由の身として育ったは

ずのイスラエルがなぜ捕らわれの身となったのかと、北イスラエルアッシリアに滅ぼされて人々が捕らわれ

の身となっている状態を目の当たりにしながら語っています。この時、エレミヤが属していました南ユダは、

アッシリアからの圧迫は受けていましたが、国はまだ滅びていませんでした。ダビデ・ソロモン時代の統一王

国から北王国イスラエルと南王国ユダに分裂して、紀元前722年に北イスラエルアッシリアに滅ぼされてし

まったのです。

・エレミヤが活動を開始したのは、ユダの王ヨシヤの治世の第13年からと言われています。ヨシヤがユダの王

となったのは、紀元前640年ですので、エレミヤは紀元前627年ごろから活動を開始したことになります。ヨシ

ヤ王が宗教改革を行ったのが622年と言われていますので、このヨシヤ王が宗教改革を行った時が、北イスラ

エルがアッシリア帝国に滅ぼされてからちょうど100年目ということになります。エレミヤはヨシヤ王の宗教

改革の少し前から預言活動を始めたことになります。

・エレミヤが預言者として召命を受けた紀元前627年の頃、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリアは、かつ

ての勢いを失って、徐々に衰退しはじめていました。紀元前627年というのは、アッシリアの王アッシュルバ

ニバルの在位が終えた年です。このアッシリアの王アッシュルバニバルは、ニネベの都に、大図書館を建て

たことで知られる王でしたが、約40年間王として君臨し、紀元前663年にエジプトを攻撃してテーベを略奪し

ました。それによって、エチオピア人の王朝であったエジプトの第25王朝は倒れ、代わって第26王朝の王プ

サメティコス一世は、アッシリアと手を結んで、当時の世界秩序の一翼を担うことになりました。しかし、

アッシュルバニバルの治世の後半になりますと、アッシリアの軍事的な世界支配にもかげりが見え始めてい

ました。ナボポラッサルがバビロンの王となったのが紀元前626年、キュアクサレスがメディアの王となった

のが紀元前625年です。この二人の王が後にアッシリア帝国に代わって覇権をにぎるようになっていきます。

・このようなエレミヤが預言活動を始めた頃の時代状況を見ますと、時代は大きく転換しはじめていたことが

分かります。エレミヤは、自由の身として育ったはずのイスラエルがなぜ捕らわれの身となったのかと、14節

で語った後に、「若獅子が彼に向かってほえ/うなり声をあげた。/彼の地は荒れ地とされ/町々は焼き払わ

れて/住む人もなくなった」(15節)と語っていますが、ここの「若獅子」とはアッシリア帝国を指していま

す。16節に「メンフィスとタフパンヘスの人々も/あなたの頭をそり上げる」と言われていますが、この「メ

ンフィスとタフパンヘス」はエジプトの重要な町です。「頭をそる」は破滅と絶望のしるしとされていますの

で、これは先ほど説明しましたアッシリア王アッシュルバニバルと手を組んだエジプトの王プサメティコスに

よる北イスラエルの圧迫をさしていると思われます。

・このような状況は当時の覇権主義的な帝国であるアッシリアやエジプトによる弱小国北イスラエルの滅亡圧

迫を指しているものと思われます。通常このような歴史的状況においては、覇権主義的な帝国であるアッシリ

アやエジプトが非難されてしかるべきです。エレミヤはアッシリア帝国を「若獅子」と言っていますが、エレ

ミヤが影響を受けました北イスラエル預言者ホセアは、アッシリアを指している獅子を神自身である言って

います。ホセア書の5章14節15節に、「わたしは」、この「わたしは」は神ヤーウエを指しているのですが、

「わたしはエフライム(北イスラエル)に対して獅子となり/ユダの家には若獅子となる。/わたしは引き裂

いて過ぎ行き/さらって行くが、救い出す者はいない。/わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。/

彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。」と言っています。この預

言者ホセアの言葉には、アッシリアやエジプトは神ヤーウエの意志を行うものとして考えられていて、神ヤー

ウエがアッシリアやエジプトによって北イスラエルや南ユダを滅ぼし圧迫し、御自身の場所に戻っているとい

うのです。北イスラエルや南ユダの人々が、「自らの罪を認めて、神ヤーウエを尋ね求め、苦しみの中で、神

ヤーウエを捜し求めるまで」と。

・このような預言者ホセアの神理解には、民族の枠を超えて世界を導き支配している神という信仰があると思

われます。そうであるからこそ、この神信仰はエレミヤ、そして第二イザヤへと引き継がれていき、バビロン

捕囚においても捕囚の民イスラエルはヤーウエ信仰による自分たちのアイデンティティーを失わずに、国家を

失ってもイスラエル民族としては生き残ることができたのです。

・エレミヤはこのようなホセアの信仰を受け継いで、アッシリアやエジプトの脅威を受けて、滅亡し圧迫を受

けている北イスラエルの人々に預言を語っているのです。エレミヤは語ります。「あなたの神なる主が、旅路

を導かれたとき/あなたが主を捨てたので、/このことがあなたの身に及んだのではないか」(17節)と。そ

して、エレミヤは「それなのに」と続けてこのように語っています。「今あなたはエジプトへ行って/ナイル

の水を飲もうとする。/それは、一体どうしてか。/また、アッシリアに行って/ユーフラテスの水を飲もう

とする。/それは一体どうしてか」(18節)。「それは一体どうしてか」というエレミヤの言葉が耳に響きま

す。

・私はこれを読みながら、安倍政権の原発再稼働や辺野古基地建設にも見える日米軍事同盟の強化を思い起こ

してしまいました。「今あなたはエジプトへ行って、ナイルの水を飲もうとする」に原発再稼働を、「また、

アッシリアに行って、ユーフラテスの水を飲もうとする」に辺野古基地建設を重ねて読んでしまいました。そ

して「それは一体どうしてか」と問わざるを得ないのです。ヒロシマナガサキを経験し、東電福島第一原発

事故を経験しておきながら、原発再稼働。「それは一体どうしてか」。また、かつて日本の国の侵略戦争によ

戦争犯罪を反省し、武力を放棄して平和国家をめざした戦後の日本の歩みを捨てて、アメリカとの軍事同盟

を基盤とする軍事力による安全保障に突き進んでいる安倍政権とその象徴と思える辺野古基地建設。「それは

一体どうしてか」。

原発事故や戦争犯罪が、神のお造りになった自然を、また人々の生命と生活を脅かすかは既に証明済みであ

る現在を、私たちは生きています。近現代史において、国民国家がお互いに戦争を繰り返してきたこと、科学

技術の進歩による企業の利潤追求が公害を引き起こしたことは、私たちすべての共有する歴史的事実でありま

す。そのことを反省し、悔い改めて、この世界の全ての人々が平和な暮らしができ、自然との共生をめざす世

界の出現が待ち望まれているのであります。

・ところが、その実現をめざして将来に向かって生きて行く信仰を、その知恵を、私たちは持ち合わせている

のでしょうか。エレミヤは、北イスラエルの滅亡圧迫によるイスラエルの民の現実を、このように語っている

のです。「あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ/、あなたの背信が、あなたを責めている。/あなたが、

わたしを畏れず/あなたの神である主を捨てたことが/いかに悪く、苦いことであるかを/味わい知るがよい

と/万軍の主なる神は言われる」(19節)と。

・エレミヤにとっての神ヤーウエは、歴史を導く方です。ただ単なる宗教祭儀の枠組みの中に閉ざされた宗教

的な神ではありません。おそらく北イスラエルの捕らわれの人々の間でも異教化したとはいえヤーウエ神の祭

儀、礼拝は行われていたと思われますし、南ユダでもエルサレム神殿はまだ健在でしたので犠牲がささげられ

ていたと思われます。しかし、そのような祭儀としての神信仰は、エレミヤの時代では、ほとんど当時の人々

の生きる使信となっていなかったのではないでしょうか。エレミヤが預言者として直接神の言葉を取り次いだ

のは、そのような宗教としての神信仰が形骸化していたからでもあったのでしょう。宗教としての神信仰には、

王でさえ場合によっては批判の対象となる王権を超える超越性が失われてしまっていたからでしょう。神は人

間のご都合主義によって歪曲されていたのではないでしょうか。

・エレミヤの預言が語っていますように、「あなたの犯した悪」「あなたの背信」「あなたが、わたしを畏れず、

あなたの神である主を捨てた」という、北イスラエル背信の事実は、戦時下の天皇制国家にも、その天皇制国

家に否を突き付けられず、それに従った民衆にも、日本基督教団という教会にも、そしてその日本基督教団

所属する私たち一人一人にも、当てはまるのではないでしょうか。しかし、その背信の責めを私たちはどれほ

ど深刻に受け止めて、二度と再び同じ過ちを繰り返さないために、自らを根本的に変革することができたので

しょうか。敗戦後の日本の歩みはその課題への応答と考えられますが、戦後70年のこの年の現実は、少なくと

も安倍政権は戦前への復帰を目論んでいるかのように思われるのであります。

・残念ながら、総体としての現在の日本の現実を見る限り、その変革はなかなか見出すことはできません。それ

は私たち教会においてもほとんど同じように思われます。自由の身が捕らわれの身になる危険性は常にあります。

否すでに私たちは自由を捨てて捕らわれての身になることを選んでしまっているかも知れません。歴史を創造す

る者から、歴史の桎梏の奴隷の身に成り下がっていはいないでしょうか。

・「あなたの神なる主が、旅路を導かれたとき/あなたが主を捨てたので/このことがあなたの身に及んだので

はないか」というエレミヤの言葉を、わが身に照らして吟味したいと思います。そしてあのニーメラーの言葉を

かみしめたいと思います。

・なぜナチスを阻止できなかったのか-マルチン・ニーメラー牧師の告白-「ナチス共産主義者を攻撃したと

き、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次

ナチス社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなか

った。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を感じました

が、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから

たって行動にでたが、そのときはすでにおそかった」( 丸山真男 『現代政治の思想と行動』 未来社 )。