「義に飢え渇く」マタイ福音書5:6、2018年8月12日(日)船越教会礼拝説教
・今日の聖書箇所でありますマタイによる福音書5章6節の
≪義に飢え渇いている人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。≫
は、ルカによる福音書6章21節の並行記事であります。ルカによる福音書の方は、
≪今飢えている人々は、幸いである。
あなたがたは、満たされる≫
です。二つは大分違います。ルカの方が元来のイエスが語った言葉ではないかと考えられています。そこ
でまずルカ福音書の元来のイエスの言葉ではないかと考えられている、「飢えている人々は幸いである」
と言われているのは何故なのかについて考えたいと思います。
・飽食の時代に生きている現代日本の都市生活者にとって、その日の食べ物に飢えるという体験はほとん
どなくなっています。寿の炊き出しは、その日の食べ物に困っている人がいるので始まりました。1993年
からずっと続いています。2008年のリーマンショック以降は、一年の内お休みは8月だけになっていま
す。炊き出しに来る人の内、どれだけの人が文字通り飢えた状態できているのかは分かりません。
・人間が飢えて餓死することは、現代の日本ではそれほど多くは起きていません。けれども全くないとい
うことはなく、親によって子供が餓死させられるという事件が起きています。寿との関わりで記憶してい
ますのは、2006年ごろでしたか、北九州で生活保護の申請が認められなかったために餓死した人が、立て
続けに2,3件起こったことがありました。現代でも世界では毎年1500万人、4秒に一人飢え死にしている
と言われています。
・これが、私たち人間が造り出しています現代の世界(社会)の現実です。飢えている人々が幸いだとは
とても思えません。私たち人間が造り出しています現実の世界、この人間社会では、どう逆立ちしても飢
えている人々が幸いであるとは言えません。悲惨そのものです。
・イエスが「今飢えている人々は幸いである」と言われたのは、逆説なのでしょうか。イエスは、「あな
たがた(今飢えている人々)は満たされる」からだというのです。「満たされる」とは「神によって満た
される」という意味です。このイエスの言葉では、「今飢えている」という現在と「満たされる」という
未来が対比されています。この対比は、「神の終末完成における運命転換の確約である」と言われます。
神は、今飢えている人々を必ず満たされる。今飢えている人々がいること自体、私たち人間によって神の
み心が排除されている証左であります。イエスは、そういう人間社会の現実の只中において、終末的な神
の支配としての神の国が到来していることを確信し、それにふさわしく生きたのではないでしょうか。
ですから、ルカによる福音書の≪今飢えている人々は、幸いである。/あなたがたは、満たされる≫は、
飢えた人々に食物が与えられないこの世の不正に対する告発でもあるのではないでしょうか。
・ マタイ福音書の著者は、このイエスの言葉を、食物に対する飢えを、義に対する飢えに変えてい
ます。
・ちなみに義という言葉は、マルコによる福音書には全く出てきませんし、ルカによる福音書もイエスの
誕生物語の中のザカリヤの賛歌の一節(1:75)だけです。しかし、マタイによる福音書では7回出てきま
す。義はマタイによる福音書では重要な言葉です。その中には人間にそなわっている義として出て来ると
ころがあります。
・5章20節には、≪言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていな
ければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない≫と言われています。また6章1節には≪見ても
らおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報
いをいただけないことになる≫と言われています。ここで新共同訳聖書が善行と訳している言葉が、原語
では義(ディカイオシュネー)となっています。
・この二つの箇所での義は、明らかに人間の振舞いを表わしています。私たちはもっと義に適う振舞いを
追求すべきであるという意味で、ここでは義という言葉が使われています。しかし、≪義に飢え渇いてい
る人々は、幸いである。/その人たちは満たされる。≫では、義は人間の振舞いの意味とは違っていま
す。人間の振舞いとしての「あなたがたの義」ではなく、(神の)義そのものが問題になっています。
・≪義に飢え渇いている人々≫と言われていますから、義を飢え渇くように求めている人々という意味で
す。マタイによる福音書の同じ山上の説教の中で、≪求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさ
い。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる≫(7:7)という、有名なイエス
の言葉があります。義に飢え渇いている人々とは、そのようにして自分にはない義を切実に求めている人
ではないでしょうか。
・これもまた、山上の説教の有名な「思い煩うな」というイエスの教えの中で、衣食住が必要なのは神が
よくご存知だから、≪何よりもまず、神の国(神の支配)と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの
ものはみな加えて与えられる≫(6:33)と言われていますが、ここでの求めなさいと言われている神の国と
神の義こそ、切実に私たちが求めるべきものなのではないでしょうか。
・≪義に飢え渇いている人々は、幸いである。/その人たちは満たされる。≫とは、「満たされる」とは
先ほど見ましたように「神によって満たされる」ですから、このマタイの至福の言葉は、「彼らが切望す
る義を神支配において得るであろうということを意味しています」。「神支配において分け与えられる義
とは、神が創る義」であって、それが即、人間の振舞いとしての義」を意味するものではありません。
・飢え渇くほどに求めることは、私たちが自分自身で生み出すことのできるものをめざしているのではな
く、私たちには生み出し得ない、神からの命としての神の義を受け取るためなのです。神支配(神の国の
到来)によって活発になるであろう神の義は、それを受け取る者にとって、その人自身を新しくするので
す。そのことは誰よりもイエス・キリストにおいて明らかです。神の国の到来を宣べ伝え、この世の現実
の只中で神の国を、神の支配を生きたイエス・キリストは、私たちにとっては、全く新しい存在です。
・その≪キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新
しいものが生じた≫(競灰5:17)のです。神は、イエス・キリストによって私たちの生まれながらの存
在から、私たちをキリストと結びつけることによって、新しく創造されたというのです。ここに人間の更
新、存在の更新の可能性があるのではないでしょうか。存在の更新によって、私たちは義なる振舞いへと
導かれていくのです。
・この世の余りにも悲惨で厳しい状況がなかなか変わらないという現実に直面して、私たちは佇んでしま
うのではないでしょうか。そのような時に、私たちは、自分がこんなに頑張っているのに、他の人は何故
分からないのだろうかと、他者を責めて、この現実が変わらない責任を他者におしつけて、自分を正当化
しようとする誘惑に陥りがちではないでしょうか。状況がどんなに厳しくても、為すべきことを為しつつ
自らが常に新たな力を得て歩み続けること。そのためには、私たちは、常に自らに刃を向け、神とイエス
との関係性において自分の存在の更新を与えられ、他者を批判するのではなく、自分の課題としてその荷
を負い続けていかなければならないのではないでしょうか。