なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖霊降臨節第15主日礼拝説教「「イエスの母、兄弟」マルコ3:31-35

9月14日(日)聖霊降臨節第15主日礼拝

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌      542(主が受け入れてくださるから)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-542.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編104編24-35節(讃美歌交読文114頁)

⑥ 聖  書   マルコによる福音書3章31-35節(新約66頁)

⓻ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   160(深き悩みより)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-160.htm

  •  説  教   「イエスの母、兄弟」 

 

今日は先ほど司会者に読んでいいただいたマルコ3章31――35節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。ここには、イエスにとって家族とは誰かということが語られています。

 

31節、32節をも一度読んでみます。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが、外であなたを捜しておられます』と知らされると」(3:31、32)と記されています。ここにはイエスも私たちと同じように家族関係を持っていたことが示されています。

 

エスバプテスマのヨハネから洗礼を受け、バプテスマのヨハネがヘロデアンティパスによって獄中の人になってから、イエス神の国の福音宣教の働きをを始めます。

 

その固有な活動を展開されたとき、

彼の肉親からは、「気が変になった」と思われることになります。

ファリサイ派の人々や律法学者からは、律法違反者として糾弾されたことになります。

故郷ナザレでは故郷の人から受け入れられませんでした。

十字架の道に進んでいく過程で、苦難が迫ってくると、弟子たちでさえ、彼を裏切ったり、捨て去ってしまいます。

これら全ては、イエスが私達と同じように一人の人間として、しかし何よりも神のみ心を大切にしてこの地上の生涯を歩まれたことによって起こったことでした。

 

そのような方としてイエスが私達の中に来たりたもうということ。そして今もみ霊においてそのような方として私達の中にイエスはい給うて、私たちを招いているということは、私達にとって何と大きな出来事でしょうか。

 

そのようなイエスにおいて、神がご自身を啓示されたのだと言われるとき、地上におけるナザレのイエスの生涯は、驚くべき神の卑下・へり下りを意味します。このイエスにおいて神と出会うことができるのですから、私達が地上にあって天にある高き神を仰ぎ、何とかして神のほうへ登っていくなどということを全く考える必要はありません。

 

神がナザレのイエスにおいて、受肉し、肉体において存在し、様々な人間関係に規定され、苦しみながら生きている私達のただ中にいたもうということがここに語られているからです。イエスにおいて神は人間の営みに対して、傍観者ではなく、私たちと共に苦しみを負ってくださる共苦者として、イエスにおいて「神我らと共にいたもう」のであります。

 

エスの母や兄弟姉妹たちが、イエスを囲んでいた「群衆」の外側から、人をやってイエスを呼ばせたと言われています。イエスの母や兄弟姉妹たちにとって、イエスは「子」であり、「兄」であります。私達は確かに家族という共同性のきずなで結ばれているが故に、両親の愛情と兄弟姉妹の思いやりを受けて育っていくのであります。

 

家族の人間関係において、母や父を欠いたり、そこに本来あるはずの愛情が欠けている場合には、家族に代わる関係の中でそれが補充されないとすれば、幼い子供が成長するのには大変厳しい情況であります。イエスも母マリアと父ヨセフ、それに弟や妹たちのいる家族の中で育ちました。その意味で、このマルコの記事における肉親の行為は、その母として、兄弟として、姉妹として、肉親の持つ心からの愛情と思いやりから、気が変になったと思ったイエスを家に連れ返そうとしたのでしょう。

 

あるいは、他人なら何をしようが、自分たち家族が非難されたり、片身の狭い思いをしなくてよくても、自分の家族の者があまりに変わったことをしでかし、それが多くの人の評判になり、非難の対象となると、自分たちを守るためにも、気が変になったと思われるイエスを連れ戻そうとしたのかもしれません。

 

家族の者であるが故に、そうでない人たち以上に、それだけ執拗に熱心にイエスをナザレの自分たちの家につれもどそうとしたのでしょう。

 

エスの周りを囲んでいた群衆も、「ごらんなさい、あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言ったといわれます。彼らもまた、肉親の者との関係を前提にしていたのでしょう。肉親の者たちがイエスを尋ねて外にいるのだから、当然イエスも彼らの所へいかれるであろうと、考えたに違いありません。

 

その群衆の中には、家族から捨てられた人たちもいたでしょう。古代の場合、労働力として価値のない老人や病気の者は家族から見捨てられがちでありました。そういう家族から見捨てられた者たちは、イエスが母や兄弟姉妹にどういう態度を取るのかを注目していたにちがいありません。

 

 群衆にとってみれば、イエスと自分たちとの関係以上に、イエスと肉親の者たちとの関係がつよいと考えたのかも知れません。そう考えたとしても、まことに当然であったと思われます。ところが、「イエスは彼らに答えて、『わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか』と言われた」のです。

 

エスが一人の人間として、家族という人間関係を初め、ナザレ出身者、大工、ユダヤ人という人間関係における諸規定のただ中に、私達と同じように生きて来たということ、それ自身驚くべきことでありますが、更に驚くべきことは、それらの諸規定を古いものとされる方であるということです。

 

「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。群衆は、このイエスの反問に対してあの外に立っている方ですと、答えられるであろうか。イエスの言葉には、そういう返答を許さないものがあります。「そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見回して、『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」と、イエスは言われたというのです。

 

群衆は、イエスの周りにいて、ただ教えを聞こうとしていただけなのかも知れません。或は、病気をいやしてもらう機会を待っていただけなのかも知れません。或はまた、人々の噂を聞いて、物珍しい気持ちだけで、イエスが何をなさるのかを見守っていただけなのかも知れません。

 

しかし、イエスご自身のほうから、そのような群衆の一人一人を「わたしの母、わたしの兄弟」であると言って、ご自身と切っても切れない関係の中に、招き入れるのであります。無条件に、すべてのものに先行して、イエスはこの言葉を人々に語られます。

 

  今ここで、この聖書の言葉を聞いている私達に向かっても、イエスは同じように『ここに、わたしの母、わたしの兄弟がいる』とおっしゃっておられるのであります。イエスがまさしく語られるところにイエスご自身がいましたもうのであります。そして、イエスのいましたもうところに、イエスを中心とした交わりが生起するのであります。それは、人間の側の応答に先立つイエスの招きによって生起している出来事です。

 

家族という肉親の関係も、故郷の人々という地縁血縁の関係も、ユダヤ人という民族的関係も、そのような枠の中に人間を当てはめ、それによって人間を規定し、他者との間に境界を引こうという見方を、イエスはここでは相対化しているのです。

 

そのようは共同性の中での一人一人という以上に、「わたしの母、わたしの兄弟」としての一人一人を優位に置いているのであります。そして、そういう関係を群衆や家族の一人一人に迫っているのです。

 

 イエスを中心にしてまわりにいる群衆たちは、様々な人間関係に規定されて生きている者たちであり、社会的な立場も、思想も、感性も、異なる者たちでありますが、それらを全て相対化せしめる、より根源的な関係を、イエスは彼らと結ぶのであります。人は、その意味で、母であり、兄弟姉妹である以前に、一人の人間として「神の子供」なのです。

 

エスの兄弟、イエスの家族に、血のつながりによる閉鎖性を持ち込むことは出来ません。社会的なもろもろの差別をそのまま持ち込むことも出来ません。支配・被支配の関係、抑圧・被抑圧の関係も持ち込むことは出来ません。そのように、イエスの兄弟、イエスの家族が生起するとき、この地上にあってわれわれを規定している古き絆が破られ、新しい現実として、神の支配が確立されるのです。

 

35節に、「神のみこころを行う者は、誰も、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」とあります。「神のみこころを行う者」とは、どのような人なのでしょうか。34節の、「自分をとりかこんでいる人々を見回して、(無条件に)『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』と言われたイエスの言葉とどのようにつながるのでしょうか。

 

マタイによる福音書の平行記事によりますと、34節の「自分をとりかこんですわっている人々を(つまり群衆を)見回して、」が「弟子たちの方に手をさしのべて言われた」となっています。マタイは明らかに群衆と弟子たちを区別しています。そして、イエスの母、イエスの兄弟とは弟子たちなのだと、言うのです。

恐らくマタイは先に書かれたマルコの、この言葉を修正したのでしょう。

 

ルカはマルコのこの部分(34節)は全部削除しています。マタイが修正し、ルカが削除するほどに、このマルコの言葉は、革命的だったのしょう。つまり、マルコにあっては、何の限定もなく、イエスのまわりに座っている群衆が、イエスの母、イエスの兄弟・姉妹だからです。

 

「神のみ心を行う者」とは、このイエスの言葉とイエスのわざが、つまり、イエスが私達の兄弟として私達の中に入って来られて、私達がこの世で結んでいる様々な人間関係を相対化し、何よりもイエスのものとされている私達。それは私達がみな「神の子供」であるという事実を根底にして、この世の様々な人間関係を、そこから見なおし、行き過ぎや過ちから自由に、相互に生きうる道なのであります。

 

 イエスに従う者たちは、そのような人と人とが偏見や蔑みのない、対等な関係の中で、兄弟姉妹として生きうるイエスの招きに従う者なのです。教会の群れは、そのようなイエスに従う道を歩もうと願う者たちの交わりなのではないでしょうか。

 

このイエスとの絶対的な関係が私達の命でありますように!

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!

 

祈ります。

 

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

私たちはすべての人間は様々な違いがありますが、本人が気づいていなくても皆イエスの家族である神の子どもであります。

エスの家族であり、神の子どもたち同士が戦争をするなどとおいうことはあり得ません。

神さま、速やかに戦争が終結しますように! 軍事力という暴力によらない、対話による問題解決への道へとお導きください。イエスさまからすれば、同じ神の子ども同士が戦争をするなどとは考えられません。どうぞ速やかに戦争が終結しますように。

また戦争への準備など必要のない、相互理解へと私たちを導いてくださいますように。

今様々な苦しみの中にある者をその苦しみから解き放ち、おごり高ぶる者を打ち砕いてください。

今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

この祈りを、イエスさまのお名前を通して、御前にお捧げ致します。

                                 アーメン。

 

  •  讃 美 歌    563(ここに私はいます)

https://ss627798.stars.ne.jp/sanbika21/Lyric/21-563.htm

  • 献  金

⑫ 頌  栄  28                                                        

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。