なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

冒険としての信仰

昨日は日曜日だった。日曜日には教会では礼拝がある。私は礼拝で説教をした。牧師だから当然のことではあるが、説教をするというのは、大変なことである。今までに何度説教をしたか分からないが、それでも緊張する。昨日も何とか説教を最後まで終えることが出来た。感謝である。そこで今日は、少しキリスト教信仰に関わることを書いてみたい。

我々人間は、自分の中に何があるかと言えば、我々以前の人間がめんめんと、想像を絶するほどの長い時間をかけて、作り上げてきた文化という過去の蓄積である。そのような伝統がほとんどで、自分の独自性はわずかである。独自性と言えるのは、自分の身体と感性くらいではないだろうか。

ただ伝統墨守もまんざらでもない。迷わなくてよい。先人のまねをしていれば、何とか生きることができるからである。でも、面白くない。安定は享受できるかもしれないが、ワクワクする冒険はない。

信仰は冒険である。伝統墨守ではない。伝統の再創造という行為である。キリスト教界の中には、信仰は行為ではない、という愚かなことを言っている者がいるが、信仰は行為である。「信じて歩みを起こす」(本田哲郎)ことである。

では、どのように信じて、どのように歩みを起こすのか。

まず出発点としては、神ないしはイエスによる自己肯定がある。人類の歴史にどれだけの人間が誕生したか分からないが、たった一人のかけがえのない人間として、この私が、この世に生まれてきたという不思議を受け容れることである。それが信仰のスタートである。

人間は社会的存在でもあるから、自分に対するいろいろな社会的評価が、自分の外側から押し寄せてくる。あなたはエリートであるとか、エリートでないとか。あなたは金持ちの家の出身であるとか、ないとか。あなたは仕事ができるとか、できないとか。そういう社会的評価は、我々の中に優越感と劣等感を醸成する。社会的に評価されている人は、自分は優れた人間ではないかと錯覚する。逆に社会的評価が悪い人は、自分はダメな人間ではないかと、必要のない自己卑下に陥る。そういう迷妄がまかり通っているのが、我々の社会である。

信仰は、そういう社会的な人間規定が迷妄であるということを明らかにしてくれる。あなたはあなたらしくあり得るし、あなたらしく生きていいんだよ、という声が耳を澄ますと、神の声として聞こえてくるのである。