なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「トロプス(SPORTの逆)」

私は今から11年前まで名古屋に18年間いた。そのころ愛知教育大学の教師で影山健という人がいて、この人を中心に敗者のないゲーム、トロプスを普及する運動があった。何かの機会に私もそのトロプスを知り、面白い試みだと思った。現在でも私の本棚にはトロプスについての二冊の本がある。『みんなでトロプス!~敗者のないゲーム入門』と『スポーツからトロプスへ~続敗者のないゲーム入門』である。

トロプスは英語のSPORTのスペルが反対にしたTROPSという造語である。スポーツには必ず勝者敗者がある。それに対してトロプスには勝者も敗者もない。通常の椅子取りゲームは、一つずつ椅子を少なくしていって、座れなかった人が敗者となる。トロプスでは、一つずつ少なくなっていく椅子にみんなが工夫していかに座ることが出来るかを楽しむゲームである。

このスポーツとトロプスの違いは、社会のあり方にも当てはまるように思える。

現在もこの地球世界にいるのかどうか、分からないが、遊牧民のベドウインの社会は、どちらかというと、トロプス的ではないかと思う。私の想像なので、正しいいかどうか分からないが、遊牧民の生活は移動しなければならないので、そう多くの財産は持ち歩けない。お互いに反発しあっていたのでは、移動の民としては困るだろう。みんなが助け合わないと成り立たない。お互いの差異を受け入れ合いながら、支え合い、分かち合っていかなければならないと思う。

それに対して、農耕文化による定着民の中には、余剰の穀物も出るので、その奪い合いが起こるだろう。人間関係にも支配と被支配という関係が生まれ易い。勝者と敗者が生まれるだろう。より権力を持つ者がその民を支配する権力構造も出来るであろう。王権なども強大になるかもしれない。

我々の現代社会は、この後者の発展形態と言えるだろう。複雑巨大な社会のシステムが作られていて、その中で我々は生きている。都会では村落共同体的な人間関係もなく、一人一人は匿名の存在である。殆ど裸の個人が巨大な社会の中を浮遊しているようなものだ。わずらわしくはなく自由だが、反面孤独である。

私はどこかで分かち合い、支え合う仲間が人には必要ではないかと思っている。遊牧的な人間の共同のあり方は、その意味で興味を惹かれる。実は聖書の神を中心とした人間の契約関係は、遊牧的なものから出てきたのではないだろうか、と私は思っている。

エスの黄金律と言われている教えは、『神を愛することと、己のごとく隣人を愛すること』である。このイエスの教えは、神を中心とした人間の契約関係を示すモーセ十戒をその前提を全く新たにした要約と考えてよい。