なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

個人を大切にする

・個々人を大切にするということは、実際にはなかなかむずかしい問題を含んでいる。

・AとBという二人の関係で、Aは、Bを大切に考えていると思っている、とする。そのAの思いが、果たしてB自身の思いと同じであるかどうかは、分からないものだ。Aの勝手な思い込みであったりする場合も、実際の人間関係には多い。自分の子供の頃を思い出して、父親や母親との関係を思い起こしてみれば、誰もそのすれ違いを体験しているに違いない。

・その点、欧米の文化は個人を大切にしているように思われる。映画などを観ていて、父親や母親が、自分たちの子供である、まだあどけない幼子に向かって、あなたはどう思うか? と聞いているシーンに出会うことがある。その子供の意思を問うているのである。もしその子供の考えが、親の価値判断からして肯定できないと思ったときは、親は何故その考えがいけないのか、きちっと説明している。

・私が小さい頃の体験では、そのような親とのやり取りはほとんどなかった。ただ余り上から親の権威をふりかざして、こうしろ、ああしろ、ということはなかった。そのことは、今考えると、私にはありがたいことである。

・日本の社会には、まだまだ儒教的な上下関係、目上の者を敬うとか、上の者の意見に逆らってはならない、というような価値観が暗黙のうちに幅を利かせているのではないか。

・このところ毎年成人式で若者が暴走するニュースが流れる。この問題の根底には言語コミュニケーションの不全があるように思われる。大人と若者の間に言語交通が成り立っていれば、若者の感情の爆発である、あのような暴走にはならないだろう。日本の社会で日本的な文化によって育った人は、自己表現の手段と方法が脆弱である。大人も、若者の自己表現をきちっと受け止められるかというと、心もとない。

・気の遠くなるような作業であるが、個々人が自分の思っていることを言葉で言えるようになることが第一ではないか。第二は、それをまず他者はきちっと聞くこと。そして、第三にお互いに批判し合う議論ができるようになること。そして最後に共に真実を追い求める熱意を失わないことではないか。

・私は、聖書の福音書に描かれているイエスの生き様には、そのような人間の本来的なあり様が歴史的に示されていると思っている。