なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

2月11日という日

今日は国の祝日としては「建国記念日」である。キリスト教界では、この日を「信教の自由を守る日」として位置づけ、「建国記念日」とは呼ばないようにしている。

60年以上前の日本の国では、異性愛者の方ならば、愛する恋人が赤紙一枚で兵士として人殺しをする戦争に狩り出されて行った。そして、戦場で戦死してしまうということが、日常的に起こっていた。現在日本の国、具体的には現在の政府は、アメリカと一緒になって再び戦争のできる国に日本を持っていこうとしている。個人の尊厳を大切にする現在の憲法教育基本法を改悪して、国を愛し、国のために命を投げ出す人造りを進めようとしている。

そのような現在のこの国にあって、個人の尊厳と自由を大切に生きていくことは、そう簡単なことではない。たが、イエスは、既に2000前にこの世の権力に屈せず、神から与えられた人間の尊厳と自由を生き抜かれたのだ(ほんまかいなー!)。

聖書のヨハネによる福音書というところに、この世の権力を代表するローマ帝国の総督ピラトとイエスの問答が記されている。ある種の裁判の記事と見てよいだろう(ヨハネによる福音書18章28-38節参照)。

その問答の中でピラトにイエスがこう答えているところがある。

「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない』」。

これはどういうことなのだろうか?

エスは、この世には属さない国から自分はやってきた。神から。神の支配する国では何よりも真理=まこと、愛、平和が大切にされているのだ。だから私は真理を、愛を、平和をこの世にもたらすためにやってきたのだと、おっしゃっているように思う。

実はヨハネ福音書のこの物語には、イエスを通して私たち一人一人も、この世に生きているが、この世に属するこの世の奴隷ではない。イエスと同じ国の住人として、本来神によって命を与えられ、神によって生かされてこの世に生きている者ではないか、という語りかけが含まれているように思われる。

もしそうだとすれば、この世の国に束縛されないイエスの自由をもって、私たちもこの世を生きることができるのではないか。そして、そのイエスの自由をもって、この世の国をイエスの国にふさわしく作り直して行く仕事が、私たちに与えられた宿題ではないだろうか。イエスが生きられたように、最も小さく最も弱い人が最も大切にされる国づくりである。

2月11日という日にこそ、「わたしの国は、この世には属していない」というイエスの言葉の真意をよく吟味理解したいものである。