なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

大地は誰のもの?

先日も書いたが、はす向かいの家の庭には、白い梅の花に続いて、紅梅か桃の花か、濃いピンクの花が咲き出した。草木は季節の変化を我々人間よりも敏感に先取りしているようだ。それは草木が徹底的に環境との関係によってその命が左右されていることを意味しているのではないか。

我々人間は、季節の変化を感ずる感度において、草木よりも遅い。それは、自然という環境世界だけでなく、社会という人間の文化世界に我々の命や生活が影響を受けているからであろう。我々人間には、むしろ社会の影響が強いので、自然の恩恵の中で生かされている己の存在を忘れがちなのではないか。

自然は元来誰の所有でもなかった。みんなに与えられた神の贈物と言ってよいだろう。ところが、いつの間にか宅地、農地、山林など、人間の所有権が主張されるようになった。大地や空や海にまで国の所有ということになった。大地も空も海も、元来はみんな神の贈物であり、誰のものでもないはずだ。

たまたま住む家を失い、路上で生活を強いられる人が、最近特に多くなっている。公園や河川敷などにテントを張って生活している人もいる。ビルの谷間にダンボールハウスを造って生活している人もいる。

何故野宿を余儀なくされる人が生まれるのか? どうしたら野宿しなくてもみんなが生活できる社会を創れるか? そういう発想からではなく、野宿を余儀なくされている人は、危険だから、汚いから、公園など公共の空間にはいてもらっては困る。そういう考えの市民が多くいるので、行政が野宿を余儀なくされている人を、シェルターに入ってもらうという大義名分を掲げながら、公園から追い出しにかかる。

行き場のない人を公共空間から追い出したり、隔離したりする、そのような行為が、東京でも大阪でも始まっている。

神さまは、一部の人間に大地や動物や植物を勝手にしていいとは言っていない。すべての人間が生き、動物も植物も生きていかれるように、被造物としての自然を守るように我々人間すべてに命じられたのではないか。とすれば、一部の人間が公共空間を私物化するのはいかがなものだろうか?