なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

現代社会と個人

ここ数年、いやもう少し前の1995年頃から、思いもよらない事件が多発するようになっています。もちろん昔からごくまれに人々をふるえ上がらせる猟奇的な事件が起きてはいました。しかし最近のように次から次にということではなかったと思います。

このような現象の背後には社会の変化が影響しているように思われます。単純に考えて、古会を想像してみましょう。数家族が川や海の近くに集落を築いて生活しているとします。幼児、少年、青年、壮年、老年と、その古代社会の集落では、ほとんど一定した道が決まっていて、そこに生まれた子どもは、その一生の道を先人が歩んだように歩んでいけばよかったのです。

ところが、現代社会、特に日本のような高度(超)資本主義社会では、先人に習っていけば一生迷わず生きることができるかというと、そういうわけにはいきません。社会の変化が激しいからです。私なども情報化社会についていけません。このブログも、私は書くだけで、娘にメールで送り、ブログに入れてもらっています。

現代社会は、個人と社会のシステムとを媒介する中間の場や機能が極端に衰退してきています。

中間の場や機能には、地域社会や家庭、教会や寺院、そして本来は寺子屋のような現代の学校なども入っていました。ところが、現代の学校、特に日本の義務教育は社会のシステムの一環に国家権力によって組み込まれてしまっています。既存の社会のシステムから離れて、自由な人間の空間とはなっていないのではないでしょうか。家庭も然りです。家庭に社会の競争原理が入ってきています。子育ても子どもの自主性が重んじられて、その子が生まれてきたことが無条件に肯定され、その子らしく生きていく力が家庭で培われれているでしょうか。

まして今日のように社会がグローバル化して世界大になり、そのシステムも巨大で複雑多様化しているわけですから、そこに裸の王様ではありませんが、裸の個人が投げ入れられているわけです。よっぽど成熟した人間でなければ、自分も他人も見失うことなく、人間らしく生きていくことは至難の業です。

そういう社会にあって教会も責任大ですが、現代の日本の教会は十分にその責任を果たしているとは言えません。スイマセン。私は一人の牧師として、こういう時代の社会で人間が人間らしく生きうる道とエネルギーを聖書から得たいと、一応奮闘しているのです。応援してね!