なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

十字架のあるキリスト教

同じキリスト教と言っても、正反対の方向のものがキリスト教界には混在しています。ですから、新しく聖書やキリスト教信仰に関心を持たれる方は、言われたことを鵜呑みにしないで、自分の感性と学びを通してその真偽を見分けてゆかれることをお薦めします。その際、大事なことはイエスをどのように見るかです。

哲学者の木田元さんと演出家の竹内敏晴さんの対談『待つしかないか~21世紀身体と哲学』の最後のところにも、このようなキリスト教批判が述べられています。それは「十字架のあるキリスト教」と「十字架のないキリスト教」についてです。

竹内敏晴さんは、「非常に不思議に思うのは、アメリカ合衆国政府が神のことをしきりに口にする。ブッシュ大統領が中国に行って、アメリカ人の80%は神を信じていると言ったでしょう。しかしキリストのことはひとことも出てこない。・・・キリストのことを思えば、愛の問題が出てくるはずだと思うのに、その影すらない。・・・一つの底流する気分として、しなきゃいけない何かとして観念はあるのだろうけれど、正義が犯されたことに対する復讐だとわきたっているアメリカの現実を見ていると、隣人愛についての思考は死んだとしか思えない」と言っています。

そして対談の相手である木田元さんは、「本当にキリスト教を旗印に掲げるんだったら、十字架に架けられたキリストをもっと問題にしていいはずですがね」と言っています。

キリスト教界に属する者として恥ずかしい話ですが、このお二人のキリスト教批判は、日本のキリスト教界にも当てはまっていると思います。

聖書によりますと、イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだと言われます。この「十字架にかけられたキリスト」について思いめぐらして見てください。

以前私が名古屋の教会の牧師をしていたときに、その教会の信徒で女子大の教師だった人が、若い女性がネックレスに十字架の飾りをつけているのを見ると、たまらない気持ちになると言われたことがあります。私はそれ程ではありませんが、十字架がローマ帝国政治犯に対する残酷極まりない処刑の仕方であったことを考えると、この方の気持ちが分からないわけでもありません。