なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

性愛について

学校の教師による子どもに対する性的犯罪について、テレビのコメンテイターがこんなことを言っていました。「日本の性犯罪に対する刑罰は軽く、1995年の沖縄で少女暴行事件を起こした米兵が日本で裁判を受けたいとを言ったといわれる程で、そこが問題ではないか。学校の教師が子どもに性犯罪を犯し、また学校現場に戻れば、その教師の中にある性的な興味の対象になる子どもが、自分のまわりに沢山いるわけだから、再犯の可能性が大きい。再犯を防ぐには、そういう教師の前から子どもを遠ざける以外にないのだから、子どもに性犯罪を犯した教師は学校現場に戻してはならない」と。

子どもたちが大人である教師によって性的にもてあそばれた体験は、その子どもの中に大きなトラウマとして一生残っていくでしょう。

ある人が、性風俗で働いている女性は自分で選んでその世界に入って、割り切って体を売っているとしても、沢山の男に自分の体を許せば、その人の精神が荒れるに違いないと言っています。

性愛の問題は人間の本質的な問題でなかなか難しいと思います。自分とは別人格の他者が関わるわけすから、この問題は丁寧に慎重に考えていかなければなりません。

アンビバレントという言葉があります。日本語訳では「両義性」ということでしょうか。一つの事象には相反するものが含まれていることが多いものです。性愛の問題も、異性愛にしろ同性愛にしろ、性愛を通して二人が一人ではあり得なかった豊かさを経験していく可能性もあれば、その反対に一人であれば味わわなくてすんだ経験もあります。一度の性愛体験で、もう二度としたくないという場合もあれば、どんなに傷ついても、繰り返し別の人と性愛を求めていく人もいるでしょう。なかなか一筋縄ではおさまらない問題です。

しかも異性愛の場合、二人の間に子どもが与えられる可能性があります。子どもが与えられた場合、子どもは二人の関係を超えた存在ですから、二人の関係が憎悪の関係になってしまって、相手に対する怒りが子どもに向けられるようになったら、子どもは二人の被害者になっていまいます。二人の合意から始まった性愛関係が、思わぬ形で大切な小さな命を傷つけてしまうことになるのです。

性愛の豊かさは、一人でも生きられる自立した人間同士の関係である場合に、その可能性が大きいように思われてなりません。