なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

子供を真ん中に

13日(日)から14日(月)にかけて、私が所属する教会で子どもたちの夏期キャンプが行われました。子どもたちの夏期キャンプは隔年毎に教会と民宿を交互にキャンプの場所にして行っていますが、今年は教会でした。礼拝堂は椅子をくっつけて即席のベットを作り、子どもたちの寝室になります。子どもたちはこの礼拝堂の寝室を結構喜んでいるようです。

今年はマタイによる福音書5章9節の「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」に基づいて「平和をつくり出す人」というテーマで行いました。

子どもの参加者13名、スタッフと大人を入れて、今年は25名でした。いつもの年よりこじんまりしていましたが、それなりに楽しく有意義な集まりを持てたと喜んでいます。

何よりも子どもたちの成長を触れ合いの中で感じることができるは、このキャンプの楽しみの一つです。一年前、二年前にはまだ幼さが残っていた子が、自分よりも年下の子どもの世話をしているところなどを見ると、この子は随分変わったなあと思えるのです。

そういう意味で、子どもの成長による変化の激しさに、なかなか変わらないでいる自分を振り返って、驚きと羨望の思いがいたします。

子どもを神聖化する必要はありませんが、子どもの良さは、何と言っても、その無心さにあるのではないでしょうか。特に小学1、2年位までの子どもには、それが顕著なように思えてなりません。と同時に、子どもは保護者があって育ちます。ある種の弱さが子どもの特徴でもあるのではないでしょうか。

偉さを競い合う弟子たちを前にして、イエスは、「子どもを真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』」(マルコによる福音書9章37節)と。

一番を競い合うところでは、小さく弱い存在は置き去りにされてしまいます。最も小さく最も弱い人を中心にその人を包み込むところでは、置き去りにされる人はいません。平和な世界とは、小さく弱い存在が置き去りにされるところではなく、誰も置き去りにされず、最も小さく弱い人が遠慮なくドーンと中心に座っていられる世界ではないでしょうか。そのおうな平和な世界にふさわしい住人になりたいですね。